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配当金・株主優待スレッド 527 [無断転載禁止]©2ch.net

1 :山師さん:2016/02/26(金) 14:28:44.80 ID:zciAt482
■2016年(平成28年)の決算月別期末権利付最終日
権利日   権利付最終売買日  
03月15日   03月10日(木)     
03月20日   03月15日(火)     
03月末     03月28日(月)     
04月末     04月25日(月)     
05月15日   05月10日(火)    
05月20日   05月17日(火)   
05月末     05月26日(木)     
06月20日   06月15日(水)     
06月末     06月27日(月)     
07月20日   07月14日(木)     
07月末     07月26日(火)     
08月20日   08月16日(火)     
08月末     08月26日(金)     
09月20日   09月14日(水)     
09月末     09月27日(火)     
10月20日   10月17日(月)     
10月末     10月26日(水)     
11月15日   11月10日(木)     
11月20日   11月15日(火)     
11月末     11月25日(金)     
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12月末     12月27日(火)     

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279 :山師さん:2016/05/19(木) 00:00:08.29 ID:xGA19+n4
も、私が自分で石屋へ行って見立みたてたりした因縁いんねんがあるので、妻はとくにそういいたかった
のでしょう。私はその新しい墓と、新しい私の妻と、それから地面の下に埋うずめられたKの新しい白骨
とを思い比べて、運命の冷罵れいばを感ぜずにはいられなかったのです。私はそれ以後決して妻といっし
ょにKの墓参りをしない事にしました。

五十二

「私の亡友に対するこうした感じはいつまでも続きました。実は私も初めからそれを恐れていたのです。
年来の希望であった結婚すら、不安のうちに式を挙げたといえばいえない事もないでしょう。しかし自分
で自分の先が見えない人間の事ですから、ことによるとあるいはこれが私の心持を一転して新しい生涯に
入はいる端緒いとくちになるかも知れないとも思ったのです。ところがいよいよ夫として朝夕妻さいと顔
を合せてみると、私の果敢はかない希望は手厳しい現実のために脆もろくも破壊されてしまいました。私
は妻と顔を合せているうちに、卒然そつぜんKに脅おびやかされるのです。つまり妻が中間に立って、K
と私をどこまでも結び付けて離さないようにするのです。妻のどこにも不足を感じない私は、ただこの一
点において彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸にはすぐそれが映うつります。映るけれども、理由
は解わからないのです。私は時々妻からなぜそんなに考えているのだとか、何か気に入らない事があるの
だろうとかいう詰問きつもんを受けました。笑って済ませる時はそれで差支さしつかえないのですが、時
によると、妻の癇かんも高こうじて来ます。しまいには「あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう」
とか、「何でも私に隠していらっしゃる事があるに違いない」とかいう怨言えんげんも聞かなくてはなり
ません。私はそのたびに苦しみました。
 私は一層いっそ思い切って、ありのままを妻に打ち明けようとした事が何度もあります。しかしいざと
いう間際になると自分以外のある力が不意に来て私を抑おさえ付けるのです。私を理解してくれるあなた
の事だから、説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話しておきます。その時分の私は
妻に対して己おのれを飾る気はまるでなかったのです。もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、
妻の前に懺悔ざんげの言葉を並べたなら、妻は嬉うれし涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いない
のです。それをあえてしない私に利害の打算があるはずはありません。私はただ妻の記憶に暗黒な一点を
印いんするに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫ひとしずくの印気インキでも
容赦ようしゃなく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。
 一年経たってもKを忘れる事のできなかった私の心は常に不安でした。私はこの不安を駆逐くちくする
ために書物に溺おぼれようと力つとめました。私は猛烈な勢いきおいをもって勉強し始めたのです。そう
してその結果を世の中に公おおやけにする日の来るのを待ちました。けれども無理に目的を拵こしらえて
、無理にその目的の達せられる日を待つのは嘘うそですから不愉快です。私はどうしても書物のなかに心
を埋うずめていられなくなりました。私はまた腕組みをして世の中を眺ながめだしたのです。
 妻はそれを今日こんにちに困らないから心に弛たるみが出るのだと観察していたようでした。妻の家に
も親子二人ぐらいは坐すわっていてどうかこうか暮して行ける財産がある上に、私も職業を求めないで差

280 :山師さん:2016/05/19(木) 00:00:20.30 ID:xGA19+n4
支さしつかえのない境遇にいたのですから、そう思われるのももっともです。私も幾分かスポイルされた
気味がありましょう。しかし私の動かなくなった原因の主なものは、全くそこにはなかったのです。叔父
おじに欺あざむかれた当時の私は、他ひとの頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが
、他ひとを悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうあろうともこの己おれ
は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。それがKのために美事みごとに破壊されてしまって
、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他ひとに愛想あいそを尽かし
た私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

五十三

「書物の中に自分を生埋いきうめにする事のできなかった私は、酒に魂を浸ひたして、己おのれを忘れよ
うと試みた時期もあります。私は酒が好きだとはいいません。けれども飲めば飲める質たちでしたから、
ただ量を頼みに心を盛もり潰つぶそうと力つとめたのです。この浅薄せんぱくな方便はしばらくするうち
に私をなお厭世的えんせいてきにしました。私は爛酔らんすいの真最中まっさいちゅうにふと自分の位置
に気が付くのです。自分はわざとこんな真似まねをして己れを偽いつわっている愚物ぐぶつだという事に
気が付くのです。すると身振みぶるいと共に眼も心も醒さめてしまいます。時にはいくら飲んでもこうし
た仮装状態にさえ入はいり込めないでむやみに沈んで行く場合も出て来ます。その上技巧で愉快を買った
後あとには、きっと沈鬱ちんうつな反動があるのです。私は自分の最も愛している妻さいとその母親に、
いつでもそこを見せなければならなかったのです。しかも彼らは彼らに自然な立場から私を解釈して掛か
かります。
 妻の母は時々気拙きまずい事を妻にいうようでした。それを妻は私に隠していました。しかし自分は自
分で、単独に私を責めなければ気が済まなかったらしいのです。責めるといっても、決して強い言葉では
ありません。妻から何かいわれたために、私が激した例ためしはほとんどなかったくらいですから。妻は
たびたびどこが気に入らないのか遠慮なくいってくれと頼みました。それから私の未来のために酒を止や
めろと忠告しました。ある時は泣いて「あなたはこの頃ごろ人間が違った」といいました。それだけなら
まだいいのですけれども、「Kさんが生きていたら、あなたもそんなにはならなかったでしょう」という
のです。私はそうかも知れないと答えた事がありましたが、私の答えた意味と、妻の了解した意味とは全
く違っていたのですから、私は心のうちで悲しかったのです。それでも私は妻に何事も説明する気にはな
れませんでした。
 私は時々妻に詫あやまりました。それは多く酒に酔って遅く帰った翌日あくるひの朝でした。妻は笑い
ました。あるいは黙っていました。たまにぽろぽろと涙を落す事もありました。私はどっちにしても自分
が不愉快で堪たまらなかったのです。だから私の妻に詫まるのは、自分に詫まるのとつまり同じ事になる
のです。私はしまいに酒を止やめました。妻の忠告で止めたというより、自分で厭いやになったから止め
たといった方が適当でしょう。
 酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。仕方がないから書物を読みます。しかし読めば読ん
だなりで、打うち遣やって置きます。私は妻から何のために勉強するのかという質問をたびたび受けまし

281 :山師さん:2016/05/19(木) 00:00:32.46 ID:xGA19+n4
た。私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間
すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる
勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞せきばくでした。どこからも切り離さ
れて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。
 同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていた
せいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正まさしく失恋のために死
んだものとすぐ極きめてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう
容易たやすくは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分で
した。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋さむしくって仕方がなくなった結果、急に所決しょけ
つしたのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄ぞっとしたのです。私もKの歩いた路みちを
、Kと同じように辿たどっているのだという予覚よかくが、折々風のように私の胸を横過よこぎり始めた
からです。

五十四

「その内妻さいの母が病気になりました。医者に見せると到底とうてい癒なおらないという診断でした。
私は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。これは病人自身のためでもありますし、また愛する妻
のためでもありましたが、もっと大きな意味からいうと、ついに人間のためでした。私はそれまでにも何
かしたくって堪たまらなかったのだけれども、何もする事ができないのでやむをえず懐手ふところでをし
ていたに違いありません。世間と切り離された私が、始めて自分から手を出して、幾分でも善いい事をし
たという自覚を得たのはこの時でした。私は罪滅つみほろぼしとでも名づけなければならない、一種の気
分に支配されていたのです。
 母は死にました。私と妻さいはたった二人ぎりになりました。妻は私に向って、これから世の中で頼り
にするものは一人しかなくなったといいました。自分自身さえ頼りにする事のできない私は、妻の顔を見
て思わず涙ぐみました。そうして妻を不幸な女だと思いました。また不幸な女だと口へ出してもいいまし
た。妻はなぜだと聞きます。妻には私の意味が解わからないのです。私もそれを説明してやる事ができな
いのです。妻は泣きました。私が不断ふだんからひねくれた考えで彼女を観察しているために、そんな事
もいうようになるのだと恨うらみました。
 母の亡くなった後あと、私はできるだけ妻を親切に取り扱ってやりました。ただ、当人を愛していたか
らばかりではありません。私の親切には箇人こじんを離れてもっと広い背景があったようです。ちょうど
妻の母の看護をしたと同じ意味で、私の心は動いたらしいのです。妻は満足らしく見えました。けれども
その満足のうちには、私を理解し得ないために起るぼんやりした稀薄きはくな点がどこかに含まれている
ようでした。しかし妻が私を理解し得たにしたところで、この物足りなさは増すとも減る気遣きづかいは
なかったのです。女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注さ
れる親切を嬉うれしがる性質が、男よりも強いように思われますから。
 妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。私は

282 :山師さん:2016/05/19(木) 00:00:44.32 ID:xGA19+n4
ただ若い時ならなれるだろうと曖昧あいまいな返事をしておきました。妻は自分の過去を振り返って眺な
がめているようでしたが、やがて微かすかな溜息ためいきを洩もらしました。
 私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃ひらめきました。初めはそれが偶然外そとから襲って来る
のです。私は驚きました。私はぞっとしました。しかししばらくしている中うちに、私の心がその物凄も
のすごい閃きに応ずるようになりました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜
ひそんでいるもののごとくに思われ出して来たのです。私はそうした心持になるたびに、自分の頭がどう
かしたのではなかろうかと疑うたぐってみました。けれども私は医者にも誰にも診みてもらう気にはなり
ませんでした。
 私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月まいげつ行かせます。
その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。私は
その感じのために、知らない路傍ろぼうの人から鞭むちうたれたいとまで思った事もあります、こうした
階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります
。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。私は仕方がないから、死
んだ気で生きて行こうと決心しました。
 私がそう決心してから今日こんにちまで何年になるでしょう。私と妻とは元の通り仲好く暮して来まし
た。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。しかし私のもっている一点、私に取っては容易
ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、私は妻さいに対して非常に気
の毒な気がします。

五十五

「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟しげきで躍おどり上がりました。し
かし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否いなや、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心を
ぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男
だと抑おさえ付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言いちげんで直すぐぐたりと萎しおれて
しまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、
何で他ひとの邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷ひややかな声で笑います。自分でよく
知っているくせにといいます。私はまたぐたりとなります。
 波瀾はらんも曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったもの
と思って下さい。妻さいが見て歯痒はがゆがる前に、私自身が何層倍なんぞうばい歯痒い思いを重ねて来
たか知れないくらいです。私がこの牢屋ろうやの中うちに凝じっとしている事がどうしてもできなくなっ
た時、またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時、必竟ひっきょう私にとって一番楽な努
力で遂行すいこうできるものは自殺より外ほかにないと私は感ずるようになったのです。あなたはなぜと
いって眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはるかも知れませんが、いつも私の心を握り締
めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に
私のために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まな

283 :山師さん:2016/05/19(木) 00:00:56.37 ID:xGA19+n4
ければ私には進みようがなくなったのです。
 私は今日こんにちに至るまですでに二、三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進もうとした事がありま
す。しかし私はいつでも妻に心を惹ひかされました。そうしてその妻をいっしょに連れて行く勇気は無論
ないのです。妻にすべてを打ち明ける事のできないくらいな私ですから、自分の運命の犠牲ぎせいとして
、妻の天寿てんじゅを奪うなどという手荒てあらな所作しょさは、考えてさえ恐ろしかったのです。私に
私の宿命がある通り、妻には妻の廻まわり合せがあります、二人を一束ひとたばにして火に燻くべるのは
、無理という点から見ても、痛ましい極端としか私には思えませんでした。
 同時に私だけがいなくなった後あとの妻を想像してみるといかにも不憫ふびんでした。母の死んだ時、
これから世の中で頼りにするものは私より外になくなったといった彼女の述懐じゅっかいを、私は腸はら
わたに沁しみ込むように記憶させられていたのです。私はいつも躊躇ちゅうちょしました。妻の顔を見て
、止よしてよかったと思う事もありました。そうしてまた凝じっと竦すくんでしまいます。そうして妻か
ら時々物足りなそうな眼で眺ながめられるのです。
 記憶して下さい。私はこんな風ふうにして生きて来たのです。始めてあなたに鎌倉かまくらで会った時
も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、私の気分に大した変りはなかったのです。私の後ろにはい
つでも黒い影が括くッ付ついていました。私は妻さいのために、命を引きずって世の中を歩いていたよう
なものです。あなたが卒業して国へ帰る時も同じ事でした。九月になったらまたあなたに会おうと約束し
た私は、嘘うそを吐ついたのではありません。全く会う気でいたのです。秋が去って、冬が来て、その冬
が尽きても、きっと会うつもりでいたのです。
 すると夏の暑い盛りに明治天皇めいじてんのうが崩御ほうぎょになりました。その時私は明治の精神が
天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後あとに
生き残っているのは必竟ひっきょう時勢遅れだという感じが烈はげしく私の胸を打ちました。私は明白あ
からさまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、で
は殉死じゅんしでもしたらよかろうと調戯からかいました。

五十六

「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生へいぜい使う必要のない字だから、記憶の底に沈
んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談じょうだんを聞いて始めてそれを思い出した時、私
は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論
笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がし
たのです。
 それから約一カ月ほど経たちました。御大葬ごたいそうの夜私はいつもの通り書斎に坐すわって、相図
あいずの号砲ごうほうを聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で
考えると、それが乃木大将のぎたいしょうの永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にし
て、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争せいなんせんそうの時敵
に旗を奪とられて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日こんにちまで生きていたという

284 :山師さん:2016/05/19(木) 00:01:08.32 ID:xGA19+n4
意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月とし
つきを勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離がありま
す。乃木さんはこの三十五年の間あいだ死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私
はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那いっせつなが苦
しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
 それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解
わからないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑のみ込めないかも知れませんが、もしそうだ
とすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人こじんのもって
生れた性格の相違といった方が確たしかかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というも
のを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己おのれを尽つくしたつもりです。
 私は妻さいを残して行きます。私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合しあわせです。私
は妻に残酷な驚怖きょうふを与える事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。妻の
知らない間まに、こっそりこの世からいなくなるようにします。私は死んだ後で、妻から頓死とんしした
と思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。
 私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節
を書き残すために使用されたものと思って下さい。始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書
いてみると、かえってその方が自分を判然はっきり描えがき出す事ができたような心持がして嬉うれしい
のです。私は酔興すいきょうに書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分とし
て、私より外ほかに誰も語り得るものはないのですから、それを偽いつわりなく書き残して置く私の努力
は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。渡辺
華山わたなべかざんは邯鄲かんたんという画えを描かくために、死期を一週間繰り延べたという話をつい
先達せんだって聞きました。他ひとから見たら余計な事のようにも解釈できましょうが、当人にはまた当
人相応の要求が心の中うちにあるのだからやむをえないともいわれるでしょう。私の努力も単にあなたに
対する約束を果たすためばかりではありません。半なかば以上は自分自身の要求に動かされた結果なので
す。
 しかし私は今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。この手紙があなたの手に落ち
る頃ころには、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。妻は十日ばかり前から
市ヶ谷いちがやの叔母おばの所へ行きました。叔母が病気で手が足りないというから私が勧めてやったの
です。私は妻の留守の間あいだに、この長いものの大部分を書きました。時々妻が帰って来ると、私はす
ぐそれを隠しました。
 私は私の過去を善悪ともに他ひとの参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承
知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己おのれの過去に対してもつ記憶を、なる
べく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一ゆいいつの希望なのですから、私が死んだ後あとでも、

285 :山師さん:2016/05/19(木) 00:01:20.40 ID:xGA19+n4
妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて
下さい。」


坊っちゃん
夏目漱石

 親譲おやゆずりの無鉄砲むてっぽうで小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階か
ら飛び降りて一週間ほど腰こしを抜ぬかした事がある。なぜそんな無闇むやみをしたと聞く人があるかも
知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談じょうだんに、
いくら威張いばっても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃はやしたからである。小使
こづかいに負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼めをして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴
やつがあるかと云いったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
 親類のものから西洋製のナイフを貰もらって奇麗きれいな刃はを日に翳かざして、友達ともだちに見せ
ていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受
け合った。そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の甲こ
うをはすに切り込こんだ。幸さいわいナイフが小さいのと、親指の骨が堅かたかったので、今だに親指は
手に付いている。しかし創痕きずあとは死ぬまで消えぬ。
 庭を東へ二十歩に行き尽つくすと、南上がりにいささかばかりの菜園があって、真中まんなかに栗くり
の木が一本立っている。これは命より大事な栗だ。実の熟する時分は起き抜けに背戸せどを出て落ちた奴
を拾ってきて、学校で食う。菜園の西側が山城屋やましろやという質屋の庭続きで、この質屋に勘太郎か
んたろうという十三四の倅せがれが居た。勘太郎は無論弱虫である。弱虫の癖くせに四つ目垣を乗りこえ
て、栗を盗ぬすみにくる。ある日の夕方折戸おりどの蔭かげに隠かくれて、とうとう勘太郎を捕つらまえ
てやった。その時勘太郎は逃にげ路みちを失って、一生懸命いっしょうけんめいに飛びかかってきた。向
むこうは二つばかり年上である。弱虫だが力は強い。鉢はちの開いた頭を、こっちの胸へ宛あててぐいぐ
い押おした拍子ひょうしに、勘太郎の頭がすべって、おれの袷あわせの袖そでの中にはいった。邪魔じゃ
まになって手が使えぬから、無暗に手を振ふったら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐら靡なび
いた。しまいに苦しがって袖の中から、おれの二の腕うでへ食い付いた。痛かったから勘太郎を垣根へ押
しつけておいて、足搦あしがらをかけて向うへ倒たおしてやった。山城屋の地面は菜園より六尺がた低い
。勘太郎は四つ目垣を半分崩くずして、自分の領分へ真逆様まっさかさまに落ちて、ぐうと云った。勘太
郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。その晩母が山城屋に詫わびに行っ
たついでに袷の片袖も取り返して来た。
 この外いたずらは大分やった。大工の兼公かねこうと肴屋さかなやの角かくをつれて、茂作もさくの人
参畠にんじんばたけをあらした事がある。人参の芽が出揃でそろわぬ処ところへ藁わらが一面に敷しいて
あったから、その上で三人が半日相撲すもうをとりつづけに取ったら、人参がみんな踏ふみつぶされてし
まった。古川ふるかわの持っている田圃たんぼの井戸いどを埋うめて尻しりを持ち込まれた事もある。太
い孟宗もうそうの節を抜いて、深く埋めた中から水が湧わき出て、そこいらの稲いねにみずがかかる仕掛

286 :山師さん:2016/05/19(木) 00:01:32.36 ID:xGA19+n4
しかけであった。その時分はどんな仕掛か知らぬから、石や棒ぼうちぎれをぎゅうぎゅう井戸の中へ挿さ
し込んで、水が出なくなったのを見届けて、うちへ帰って飯を食っていたら、古川が真赤まっかになって
怒鳴どなり込んで来た。たしか罰金ばっきんを出して済んだようである。
 おやじはちっともおれを可愛かわいがってくれなかった。母は兄ばかり贔屓ひいきにしていた。この兄
はやに色が白くって、芝居しばいの真似まねをして女形おんながたになるのが好きだった。おれを見る度
にこいつはどうせ碌ろくなものにはならないと、おやじが云った。乱暴で乱暴で行く先が案じられると母
が云った。なるほど碌なものにはならない。ご覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はな
い。ただ懲役ちょうえきに行かないで生きているばかりである。
 母が病気で死ぬ二三日にさんち前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨あばらぼねを撲うって大いに
痛かった。母が大層怒おこって、お前のようなものの顔は見たくないと云うから、親類へ泊とまりに行っ
ていた。するととうとう死んだと云う報知しらせが来た。そう早く死ぬとは思わなかった。そんな大病な
ら、もう少し大人おとなしくすればよかったと思って帰って来た。そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、
おれのために、おっかさんが早く死んだんだと云った。口惜くやしかったから、兄の横っ面を張って大変
叱しかられた。
 母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮くらしていた。おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば
貴様は駄目だめだ駄目だと口癖のように云っていた。何が駄目なんだか今に分らない。妙みょうなおやじ
があったもんだ。兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。元来女のような性分で、ず
るいから、仲がよくなかった。十日に一遍いっぺんぐらいの割で喧嘩けんかをしていた。ある時将棋しょ
うぎをさしたら卑怯ひきょうな待駒まちごまをして、人が困ると嬉うれしそうに冷やかした。あんまり腹
が立ったから、手に在った飛車を眉間みけんへ擲たたきつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。兄が
おやじに言付いつけた。おやじがおれを勘当かんどうすると言い出した。
 その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている
清きよという下女が、泣きながらおやじに詫あやまって、ようやくおやじの怒いかりが解けた。それにも
かかわらずあまりおやじを怖こわいとは思わなかった。かえってこの清と云う下女に気の毒であった。こ
の下女はもと由緒ゆいしょのあるものだったそうだが、瓦解がかいのときに零落れいらくして、つい奉公
ほうこうまでするようになったのだと聞いている。だから婆ばあさんである。この婆さんがどういう因縁
いんえんか、おれを非常に可愛がってくれた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想あいそをつか
した――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎と爪弾つまはじきをする――このおれ
を無暗に珍重ちんちょうしてくれた。おれは到底とうてい人に好かれる性たちでないとあきらめていたか
ら、他人から木の端はしのように取り扱あつかわれるのは何とも思わない、かえってこの清のようにちや
ほやしてくれるのを不審ふしんに考えた。清は時々台所で人の居ない時に「あなたは真まっ直すぐでよい
ご気性だ」と賞ほめる事が時々あった。しかしおれには清の云う意味が分からなかった。好いい気性なら

287 :山師さん:2016/05/19(木) 00:01:44.43 ID:xGA19+n4
清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと思った。清がこんな事を云う度におれはお世辞は嫌き
らいだと答えるのが常であった。すると婆さんはそれだから好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれ
の顔を眺ながめている。自分の力でおれを製造して誇ほこってるように見える。少々気味がわるかった。
 母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思
った。つまらない、廃よせばいいのにと思った。気の毒だと思った。それでも清は可愛がる。折々は自分
の小遣こづかいで金鍔きんつばや紅梅焼こうばいやきを買ってくれる。寒い夜などはひそかに蕎麦粉そば
こを仕入れておいて、いつの間にか寝ねている枕元まくらもとへ蕎麦湯を持って来てくれる。時には鍋焼
饂飩なべやきうどんさえ買ってくれた。ただ食い物ばかりではない。靴足袋くつたびももらった。鉛筆え
んぴつも貰った、帳面も貰った。これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してくれた事さえある。
何も貸せと云った訳ではない。向うで部屋へ持って来てお小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさい
と云ってくれたんだ。おれは無論入らないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた。実は大変嬉
しかった。その三円を蝦蟇口がまぐちへ入れて、懐ふところへ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと後架
こうかの中へ落おとしてしまった。仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと清に話したとこ
ろが、清は早速竹の棒を捜さがして来て、取って上げますと云った。しばらくすると井戸端いどばたでざ
あざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口の紐ひもを引き懸かけたのを水で洗っていた。それから
口をあけて壱円札いちえんさつを改めたら茶色になって模様が消えかかっていた。清は火鉢で乾かわかし
て、これでいいでしょうと出した。ちょっとかいでみて臭くさいやと云ったら、それじゃお出しなさい、
取り換かえて来て上げますからと、どこでどう胡魔化ごまかしたか札の代りに銀貨を三円持って来た。こ
の三円は何に使ったか忘れてしまった。今に返すよと云ったぎり、返さない。今となっては十倍にして返
してやりたくても返せない。
 清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だ
け得をするほど嫌いな事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子かしや色鉛筆
を貰いたくはない。なぜ、おれ一人にくれて、兄さんには遣やらないのかと清に聞く事がある。すると清
は澄すましたものでお兄様あにいさまはお父様とうさまが買ってお上げなさるから構いませんと云う。こ
れは不公平である。おやじは頑固がんこだけれども、そんな依怙贔負えこひいきはせぬ男だ。しかし清の
眼から見るとそう見えるのだろう。全く愛に溺おぼれていたに違ちがいない。元は身分のあるものでも教
育のない婆さんだから仕方がない。単にこればかりではない。贔負目は恐ろしいものだ。清はおれをもっ
て将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。その癖勉強をする兄は色ばかり白くって、とて
も役には立たないと一人できめてしまった。こんな婆さんに逢あっては叶かなわない。自分の好きなもの
は必ずえらい人物になって、嫌いなひとはきっと落ち振れるものと信じている。おれはその時から別段何
になると云う了見りょうけんもなかった。しかし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れる

288 :山師さん:2016/05/19(木) 00:01:56.67 ID:xGA19+n4
んだろうと思っていた。今から考えると馬鹿馬鹿ばかばかしい。ある時などは清にどんなものになるだろ
うと聞いてみた事がある。ところが清にも別段の考えもなかったようだ。ただ手車てぐるまへ乗って、立
派な玄関げんかんのある家をこしらえるに相違そういないと云った。
 それから清はおれがうちでも持って独立したら、一所いっしょになる気でいた。どうか置いて下さいと
何遍も繰くり返して頼んだ。おれも何だかうちが持てるような気がして、うん置いてやると返事だけはし
ておいた。ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこがお好き、麹町こうじまちですか麻
布あざぶですか、お庭へぶらんこをおこしらえ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですなどと勝手な計画を
独りで並ならべていた。その時は家なんか欲しくも何ともなかった。西洋館も日本建にほんだても全く不
用であったから、そんなものは欲しくないと、いつでも清に答えた。すると、あなたは欲がすくなくって
、心が奇麗だと云ってまた賞めた。清は何と云っても賞めてくれる。
 母が死んでから五六年の間はこの状態で暮していた。おやじには叱られる。兄とは喧嘩をする。清には
菓子を貰う、時々賞められる。別に望みもない。これでたくさんだと思っていた。ほかの小供も一概いち
がいにこんなものだろうと思っていた。ただ清が何かにつけて、あなたはお可哀想かわいそうだ、不仕合
ふしあわせだと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。その外に苦にな
る事は少しもなかった。ただおやじが小遣いをくれないには閉口した。
 母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなった。その年の四月におれはある私立の中学校を
卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。兄は何とか会社の九州の支店に口があって行ゆかなければな
らん。おれは東京でまだ学問をしなければならない。兄は家を売って財産を片付けて任地へ出立しゅった
つすると云い出した。おれはどうでもするがよかろうと返事をした。どうせ兄の厄介やっかいになる気は
ない。世話をしてくれるにしたところで、喧嘩をするから、向うでも何とか云い出すに極きまっている。
なまじい保護を受ければこそ、こんな兄に頭を下げなければならない。牛乳配達をしても食ってられると
覚悟かくごをした。兄はそれから道具屋を呼んで来て、先祖代々の瓦落多がらくたを二束三文にそくさん
もんに売った。家屋敷いえやしきはある人の周旋しゅうせんである金満家に譲った。この方は大分金にな
ったようだが、詳くわしい事は一向知らぬ。おれは一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神田
の小川町おがわまちへ下宿していた。清は十何年居たうちが人手に渡わたるのを大いに残念がったが、自
分のものでないから、仕様がなかった。あなたがもう少し年をとっていらっしゃれば、ここがご相続が出
来ますものをとしきりに口説いていた。もう少し年をとって相続が出来るものなら、今でも相続が出来る
はずだ。婆さんは何なんにも知らないから年さえ取れば兄の家がもらえると信じている。
 兄とおれはかように分れたが、困ったのは清の行く先である。兄は無論連れて行ける身分でなし、清も
兄の尻にくっ付いて九州下くんだりまで出掛ける気は毛頭なし、と云ってこの時のおれは四畳半よじょう
はんの安下宿に籠こもって、それすらもいざとなれば直ちに引き払はらわねばならぬ始末だ。どうする事
も出来ん。清に聞いてみた。どこかへ奉公でもする気かねと云ったらあなたがおうちを持って、奥おくさ

289 :山師さん:2016/05/19(木) 00:02:08.41 ID:xGA19+n4
まをお貰いになるまでは、仕方がないから、甥おいの厄介になりましょうとようやく決心した返事をした
。この甥は裁判所の書記でまず今日には差支さしつかえなく暮していたから、今までも清に来るなら来い
と二三度勧めたのだが、清はたとい下女奉公はしても年来住み馴なれた家うちの方がいいと云って応じな
かった。しかし今の場合知らぬ屋敷へ奉公易ほうこうがえをして入らぬ気兼きがねを仕直すより、甥の厄
介になる方がましだと思ったのだろう。それにしても早くうちを持ての、妻さいを貰えの、来て世話をす
るのと云う。親身しんみの甥よりも他人のおれの方が好きなのだろう。
 九州へ立つ二日前兄が下宿へ来て金を六百円出してこれを資本にして商買しょうばいをするなり、学資
にして勉強をするなり、どうでも随意ずいいに使うがいい、その代りあとは構わないと云った。兄にして
は感心なやり方だ、何の六百円ぐらい貰わんでも困りはせんと思ったが、例に似ぬ淡泊たんばくな処置が
気に入ったから、礼を云って貰っておいた。兄はそれから五十円出してこれをついでに清に渡してくれと
云ったから、異議なく引き受けた。二日立って新橋の停車場ていしゃばで分れたぎり兄にはその後一遍も
逢わない。
 おれは六百円の使用法について寝ながら考えた。商買をしたって面倒めんどくさくって旨うまく出来る
ものじゃなし、ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。よしやれるとしても、今の
ようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。資本などはどうでもいい
から、これを学資にして勉強してやろう。六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出
来る。三年間一生懸命にやれば何か出来る。それからどこの学校へはいろうと考えたが、学問は生来しょ
うらいどれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とか云うものは真平まっぴらご免めんだ。新体詩な
どと来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、
幸い物理学校の前を通り掛かかったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらっ
てすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起おこった失策だ。
 三年間まあ人並ひとなみに勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定か
んじょうする方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分
でも可笑おかしいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。
 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のあ
る中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。おれは三年間学問
はしたが実を云うと教師になる気も、田舎いなかへ行く考えも何もなかった。もっとも教師以外に何をし
ようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席そくせきに返事をした。これ
も親譲りの無鉄砲が祟たたったのである。
 引き受けた以上は赴任ふにんせねばならぬ。この三年間は四畳半に蟄居ちっきょして小言はただの一度
も聞いた事がない。喧嘩もせずに済んだ。おれの生涯のうちでは比較的ひかくてき呑気のんきな時節であ
った。しかしこうなると四畳半も引き払わなければならん。生れてから東京以外に踏み出したのは、同級
生と一所に鎌倉かまくらへ遠足した時ばかりである。今度は鎌倉どころではない。大変な遠くへ行かねば

290 :山師さん:2016/05/19(木) 00:02:20.44 ID:xGA19+n4
ならぬ。地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える。どうせ碌な所ではあるまい。どんな町で、どんな
人が住んでるか分らん。分らんでも困らない。心配にはならぬ。ただ行くばかりである。もっとも少々面
倒臭い。
 家を畳たたんでからも清の所へは折々行った。清の甥というのは存外結構な人である。おれが行ゆくた
びに、居おりさえすれば、何くれと款待もてなしてくれた。清はおれを前へ置いて、いろいろおれの自慢
じまんを甥に聞かせた。今に学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通うのだなどと吹聴ふいちょ
うした事もある。独りで極きめて一人ひとりで喋舌しゃべるから、こっちは困こまって顔を赤くした。そ
れも一度や二度ではない。折々おれが小さい時寝小便をした事まで持ち出すには閉口した。甥は何と思っ
て清の自慢を聞いていたか分らぬ。ただ清は昔風むかしふうの女だから、自分とおれの関係を封建ほうけ
ん時代の主従しゅじゅうのように考えていた。自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合点がてん
したものらしい。甥こそいい面つらの皮だ。
 いよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を尋たずねたら、北向きの三畳に風邪かぜを引い
て寝ていた。おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊ぼっちゃんいつ家うちをお持ちなさいますと聞い
た。卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている。そんなにえらい人をつらまえ
て、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。おれは単簡に当分うちは持たない。田舎へ行くん
だと云ったら、非常に失望した容子ようすで、胡麻塩ごましおの鬢びんの乱れをしきりに撫なでた。あま
り気の毒だから「行ゆく事は行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る」と慰なぐさめてやった。そ
れでも妙な顔をしているから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」と聞いてみたら「越後えち
ごの笹飴ささあめが食べたい」と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。「おれの
行く田舎には笹飴はなさそうだ」と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。「
西の方だよ」と云うと「箱根はこねのさきですか手前ですか」と問う。随分持てあました。
 出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。来る途中とちゅう小間物屋で買って来た歯磨はみが
きと楊子ようじと手拭てぬぐいをズックの革鞄かばんに入れてくれた。そんな物は入らないと云ってもな
かなか承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの
顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌きげんよう」と小さな声で云った。目に
涙なみだが一杯いっぱいたまっている。おれは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。汽
車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だいしょうぶだろうと思って、窓から首を出して、振り向いた
ら、やっぱり立っていた。何だか大変小さく見えた。



 ぶうと云いって汽船がとまると、艀はしけが岸を離はなれて、漕こぎ寄せて来た。船頭は真まっ裸ぱだ
かに赤ふんどしをしめている。野蛮やばんな所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いの
で水がやに光る。見つめていても眼めがくらむ。事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのだそうだ。
見るところでは大森おおもりぐらいな漁村だ。人を馬鹿ばかにしていらあ、こんな所に我慢がまんが出来

291 :山師さん:2016/05/19(木) 00:02:32.41 ID:xGA19+n4
るものかと思ったが仕方がない。威勢いせいよく一番に飛び込んだ。続つづいて五六人は乗ったろう。外
に大きな箱はこを四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻もどして来た。陸おかへ着いた時も、いの一
番に飛び上がって、いきなり、磯いそに立っていた鼻たれ小僧こぞうをつらまえて中学校はどこだと聞い
た。小僧はぼんやりして、知らんがの、と云った。気の利かぬ田舎いなかものだ。猫ねこの額ほどな町内
の癖くせに、中学校のありかも知らぬ奴やつがあるものか。ところへ妙みょうな筒つつっぽうを着た男が
きて、こっちへ来いと云うから、尾ついて行ったら、港屋とか云う宿屋へ連れて来た。やな女が声を揃そ
ろえてお上がりなさいと云うので、上がるのがいやになった。門口へ立ったなり中学校を教えろと云った
ら、中学校はこれから汽車で二里ばかり行かなくっちゃいけないと聞いて、なお上がるのがいやになった
。おれは、筒っぽうを着た男から、おれの革鞄かばんを二つ引きたくって、のそのそあるき出した。宿屋
のものは変な顔をしていた。
 停車場はすぐ知れた。切符きっぷも訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろご
ろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭
である。それから車を傭やとって、中学校へ来たら、もう放課後で誰だれも居ない。宿直はちょっと用達
ようたしに出たと小使こづかいが教えた。随分ずいぶん気楽な宿直がいるものだ。校長でも尋たずねよう
かと思ったが、草臥くたびれたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に云い付けた。車夫は威勢よく
山城屋やましろやと云ううちへ横付けにした。山城屋とは質屋の勘太郎かんたろうの屋号と同じだからち
ょっと面白く思った。
 何だか二階の楷子段はしごだんの下の暗い部屋へ案内した。熱くって居られやしない。こんな部屋はい
やだと云ったらあいにくみんな塞ふさがっておりますからと云いながら革鞄を抛ほうり出したまま出て行
った。仕方がないから部屋の中へはいって汗あせをかいて我慢がまんしていた。やがて湯に入れと云うか
ら、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がった。帰りがけに覗のぞいてみると涼すずしそうな部屋がたくさん空
いている。失敬な奴だ。嘘うそをつきゃあがった。それから下女が膳ぜんを持って来た。部屋は熱あつか
ったが、飯は下宿のよりも大分旨うまかった。給仕をしながら下女がどちらからおいでになりましたと聞
くから、東京から来たと答えた。すると東京はよい所でございましょうと云ったから当あたり前だと答え
てやった。膳を下げた下女が台所へいった時分、大きな笑い声が聞きこえた。くだらないから、すぐ寝ね
たが、なかなか寝られない。熱いばかりではない。騒々そうぞうしい。下宿の五倍ぐらいやかましい。う
とうとしたら清きよの夢ゆめを見た。清が越後えちごの笹飴ささあめを笹ぐるみ、むしゃむしゃ食ってい
る。笹は毒だからよしたらよかろうと云うと、いえこの笹がお薬でございますと云いって旨そうに食って
いる。おれがあきれ返って大きな口を開いてハハハハと笑ったら眼が覚めた。下女が雨戸を明けている。
相変らず空の底が突つき抜ぬけたような天気だ。
 道中どうちゅうをしたら茶代をやるものだと聞いていた。茶代をやらないと粗末そまつに取り扱われる
と聞いていた。こんな、狭せまくて暗い部屋へ押おし込めるのも茶代をやらないせいだろう。見すぼらし
い服装なりをして、ズックの革鞄と毛繻子けじゅすの蝙蝠傘こうもりを提げてるからだろう。田舎者の癖

292 :山師さん:2016/05/19(木) 00:02:44.47 ID:xGA19+n4
に人を見括みくびったな。一番茶代をやって驚おどろかしてやろう。おれはこれでも学資のあまりを三十
円ほど懐ふところに入れて東京を出て来たのだ。汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほ
どある。みんなやったってこれからは月給を貰もらうんだから構わない。田舎者はしみったれだから五円
もやれば驚おどろいて眼を廻まわすに極きまっている。どうするか見ろと済すまして顔を洗って、部屋へ
帰って待ってると、夕べの下女が膳を持って来た。盆ぼんを持って給仕をしながら、やににやにや笑って
る。失敬な奴だ。顔のなかをお祭りでも通りゃしまいし。これでもこの下女の面つらよりよっぽど上等だ
。飯を済ましてからにしようと思っていたが、癪しゃくに障さわったから、中途ちゅうとで五円札さつを
一枚まい出して、あとでこれを帳場へ持って行けと云ったら、下女は変な顔をしていた。それから飯を済
ましてすぐ学校へ出懸でかけた。靴くつは磨みがいてなかった。
 学校は昨日きのう車で乗りつけたから、大概たいがいの見当は分っている。四つ角を二三度曲がったら
すぐ門の前へ出た。門から玄関げんかんまでは御影石みかげいしで敷しきつめてある。きのうこの敷石の
上を車でがらがらと通った時は、無暗むやみに仰山ぎょうさんな音がするので少し弱った。途中から小倉
こくらの制服を着た生徒にたくさん逢あったが、みんなこの門をはいって行く。中にはおれより背が高く
って強そうなのが居る。あんな奴を教えるのかと思ったら何だか気味が悪わるくなった。名刺めいしを出
したら校長室へ通した。校長は薄髯うすひげのある、色の黒い、目の大きな狸たぬきのような男である。
やにもったいぶっていた。まあ精出して勉強してくれと云って、恭うやうやしく大きな印の捺おさった、
辞令を渡わたした。この辞令は東京へ帰るとき丸めて海の中へ抛り込こんでしまった。校長は今に職員に
紹介しょうかいしてやるから、一々その人にこの辞令を見せるんだと云って聞かした。余計な手数だ。そ
んな面倒めんどうな事をするよりこの辞令を三日間職員室へ張り付ける方がましだ。
 教員が控所ひかえじょへ揃そろうには一時間目の喇叭らっぱが鳴らなくてはならぬ。大分時間がある。
校長は時計を出して見て、追々おいおいゆるりと話すつもりだが、まず大体の事を呑のみ込んでおいても
らおうと云って、それから教育の精神について長いお談義を聞かした。おれは無論いい加減に聞いていた
が、途中からこれは飛んだ所へ来たと思った。校長の云うようにはとても出来ない。おれみたような無鉄
砲むてっぽうなものをつらまえて、生徒の模範もはんになれの、一校の師表しひょうと仰あおがれなくて
はいかんの、学問以外に個人の徳化を及およぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をす
る。そんなえらい人が月給四十円で遥々はるばるこんな田舎へくるもんか。人間は大概似たもんだ。腹が
立てば喧嘩けんかの一つぐらいは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、
散歩も出来ない。そんなむずかしい役なら雇やとう前にこれこれだと話すがいい。おれは嘘うそをつくの
が嫌きらいだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで断ことわって
帰っちまおうと思った。宿屋へ五円やったから財布さいふの中には九円なにがししかない。九円じゃ東京
までは帰れない。茶代なんかやらなければよかった。惜おしい事をした。しかし九円だって、どうかなら

293 :山師さん:2016/05/19(木) 00:02:56.46 ID:xGA19+n4
ない事はない。旅費は足りなくっても嘘をつくよりましだと思って、到底とうていあなたのおっしゃる通
りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと云ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見
ていた。やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出来ないのはよく知っているから心配しなく
ってもいいと云いながら笑った。そのくらいよく知ってるなら、始めから威嚇おどささなければいいのに

 そう、こうする内に喇叭が鳴った。教場の方が急にがやがやする。もう教員も控所へ揃いましたろうと
云うから、校長に尾いて教員控所へはいった。広い細長い部屋の周囲に机を並ならべてみんな腰こしをか
けている。おれがはいったのを見て、みんな申し合せたようにおれの顔を見た。見世物じゃあるまいし。
それから申し付けられた通り一人一人ひとりびとりの前へ行って辞令を出して挨拶あいさつをした。大概
たいがいは椅子いすを離れて腰をかがめるばかりであったが、念の入ったのは差し出した辞令を受け取っ
て一応拝見をしてそれを恭うやうやしく返却へんきゃくした。まるで宮芝居の真似まねだ。十五人目に体
操たいそうの教師へと廻って来た時には、同じ事を何返もやるので少々じれったくなった。向むこうは一
度で済む。こっちは同じ所作しょさを十五返繰り返している。少しはひとの了見りょうけんも察してみる
がいい。
 挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。これは文学士だそうだ。文学士と云えば大学の卒業
生だからえらい人なんだろう。妙みょうに女のような優しい声を出す人だった。もっとも驚いたのはこの
暑いのにフランネルの襯衣しゃつを着ている。いくらか薄うすい地には相違そういなくっても暑いには極
ってる。文学士だけにご苦労千万な服装なりをしたもんだ。しかもそれが赤シャツだから人を馬鹿ばかに
している。あとから聞いたらこの男は年が年中赤シャツを着るんだそうだ。妙な病気があった者だ。当人
の説明では赤は身体からだに薬になるから、衛生のためにわざわざ誂あつらえるんだそうだが、入らざる
心配だ。そんならついでに着物も袴はかまも赤にすればいい。それから英語の教師に古賀こがとか云う大
変顔色の悪わるい男が居た。大概顔の蒼あおい人は瘠やせてるもんだがこの男は蒼くふくれている。昔む
かし小学校へ行く時分、浅井あさいの民たみさんと云う子が同級生にあったが、この浅井のおやじがやは
り、こんな色つやだった。浅井は百姓ひゃくしょうだから、百姓になるとあんな顔になるかと清に聞いて
みたら、そうじゃありません、あの人はうらなりの唐茄子とうなすばかり食べるから、蒼くふくれるんで
すと教えてくれた。それ以来蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食った酬むくいだと思う。
この英語の教師もうらなりばかり食ってるに違ちがいない。もっともうらなりとは何の事か今もって知ら
ない。清に聞いてみた事はあるが、清は笑って答えなかった。大方清も知らないんだろう。それからおれ
と同じ数学の教師に堀田ほったというのが居た。これは逞たくましい毬栗坊主いがぐりぼうずで、叡山え
いざんの悪僧あくそうと云うべき面構つらがまえである。人が叮寧ていねいに辞令を見せたら見向きもせ
ず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに来給きたまえアハハハと云った。何がアハハハだ。そんな礼儀れい
ぎを心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。おれはこの時からこの坊主に山嵐やまあらしという渾名あだ
なをつけてやった。漢学の先生はさすがに堅かたいものだ。昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授

294 :山師さん:2016/05/19(木) 00:03:08.45 ID:xGA19+n4
業をお始めで、大分ご励精れいせいで、――とのべつに弁じたのは愛嬌あいきょうのあるお爺じいさんだ
。画学の教師は全く芸人風だ。べらべらした透綾すきやの羽織を着て、扇子せんすをぱちつかせて、お国
はどちらでげす、え? 東京? そりゃ嬉うれしい、お仲間が出来て……私わたしもこれで江戸えどっ子
ですと云った。こんなのが江戸っ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考えた。そのほか一人一人
についてこんな事を書けばいくらでもある。しかし際限がないからやめる。
 挨拶が一通り済んだら、校長が今日はもう引き取ってもいい、もっとも授業上の事は数学の主任と打ち
合せをしておいて、明後日あさってから課業を始めてくれと云った。数学の主任は誰かと聞いてみたら例
の山嵐であった。忌々いまいましい、こいつの下に働くのかおやおやと失望した。山嵐は「おい君どこに
宿とまってるか、山城屋か、うん、今に行って相談する」と云い残して白墨はくぼくを持って教場へ出て
行った。主任の癖に向うから来て相談するなんて不見識な男だ。しかし呼び付けるよりは感心だ。
 それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩して
やろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。県庁も見た。古い前世紀の建築である。兵営も見
た。麻布あざぶの聯隊れんたいより立派でない。大通りも見た。神楽坂かぐらざかを半分に狭くしたぐら
いな道幅みちはばで町並まちなみはあれより落ちる。二十五万石の城下だって高の知れたものだ。こんな
所に住んでご城下だなどと威張いばってる人間は可哀想かわいそうなものだと考えながらくると、いつし
か山城屋の前に出た。広いようでも狭いものだ。これで大抵たいていは見尽みつくしたのだろう。帰って
飯でも食おうと門口をはいった。帳場に坐すわっていたかみさんが、おれの顔を見ると急に飛び出してき
てお帰り……と板の間へ頭をつけた。靴くつを脱ぬいで上がると、お座敷ざしきがあきましたからと下女
が二階へ案内をした。十五畳じょうの表二階で大きな床とこの間まがついている。おれは生れてからまだ
こんな立派な座敷へはいった事はない。この後いつはいれるか分らないから、洋服を脱いで浴衣ゆかた一
枚になって座敷の真中まんなかへ大の字に寝てみた。いい心持ちである。
 昼飯を食ってから早速清へ手紙をかいてやった。おれは文章がまずい上に字を知らないから手紙を書く
のが大嫌だいきらいだ。またやる所もない。しかし清は心配しているだろう。難船して死にやしないかな
どと思っちゃ困るから、奮発ふんぱつして長いのを書いてやった。その文句はこうである。
「きのう着いた。つまらん所だ。十五畳の座敷に寝ている。宿屋へ茶代を五円やった。かみさんが頭を板
の間へすりつけた。夕べは寝られなかった。清が笹飴を笹ごと食う夢を見た。来年の夏は帰る。今日学校
へ行ってみんなにあだなをつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山
嵐、画学はのだいこ。今にいろいろな事を書いてやる。さようなら」
 手紙をかいてしまったら、いい心持ちになって眠気ねむけがさしたから、最前のように座敷の真中への
びのびと大の字に寝た。今度は夢も何も見ないでぐっすり寝た。この部屋かいと大きな声がするので目が
覚めたら、山嵐がはいって来た。最前は失敬、君の受持ちは……と人が起き上がるや否や談判を開かれた
ので大いに狼狽ろうばいした。受持ちを聞いてみると別段むずかしい事もなさそうだから承知した。この

295 :山師さん:2016/05/19(木) 00:03:20.49 ID:xGA19+n4
くらいの事なら、明後日は愚おろか、明日あしたから始めろと云ったって驚ろかない。授業上の打ち合せ
が済んだら、君はいつまでこんな宿屋に居るつもりでもあるまい、僕ぼくがいい下宿を周旋しゅうせんし
てやるから移りたまえ。外のものでは承知しないが僕が話せばすぐ出来る。早い方がいいから、今日見て
、あす移って、あさってから学校へ行けば極りがいいと一人で呑み込んでいる。なるほど十五畳敷にいつ
まで居る訳にも行くまい。月給をみんな宿料しゅくりょうに払はらっても追っつかないかもしれぬ。五円
の茶代を奮発ふんぱつしてすぐ移るのはちと残念だが、どうせ移る者なら、早く引き越こして落ち付く方
が便利だから、そこのところはよろしく山嵐に頼たのむ事にした。すると山嵐はともかくもいっしょに来
てみろと云うから、行った。町はずれの岡の中腹にある家で至極閑静かんせいだ。主人は骨董こっとうを
売買するいか銀と云う男で、女房にょうぼうは亭主ていしゅよりも四つばかり年嵩としかさの女だ。中学
校に居た時ウィッチと云う言葉を習った事があるがこの女房はまさにウィッチに似ている。ウィッチだっ
て人の女房だから構わない。とうとう明日から引き移る事にした。帰りに山嵐は通町とおりちょうで氷水
を一杯ぱい奢おごった。学校で逢った時はやに横風おうふうな失敬な奴だと思ったが、こんなにいろいろ
世話をしてくれるところを見ると、わるい男でもなさそうだ。ただおれと同じようにせっかちで肝癪持か
んしゃくもちらしい。あとで聞いたらこの男が一番生徒に人望があるのだそうだ。



 いよいよ学校へ出た。初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、
おれでも先生が勤まるのかと思った。生徒はやかましい。時々図抜ずぬけた大きな声で先生と云いう。先
生には応こたえた。今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは
雲泥うんでいの差だ。何だか足の裏がむずむずする。おれは卑怯ひきょうな人間ではない。臆病おくびょ
うな男でもないが、惜おしい事に胆力たんりょくが欠けている。先生と大きな声をされると、腹の減った
時に丸の内で午砲どんを聞いたような気がする。最初の一時間は何だかいい加減にやってしまった。しか
し別段困った質問も掛かけられずに済んだ。控所ひかえじょへ帰って来たら、山嵐がどうだいと聞いた。
うんと単簡に返事をしたら山嵐は安心したらしかった。
 二時間目に白墨はくぼくを持って控所を出た時には何だか敵地へ乗り込こむような気がした。教場へ出
ると今度の組は前より大きな奴やつばかりである。おれは江戸えどっ子で華奢きゃしゃに小作りに出来て
いるから、どうも高い所へ上がっても押おしが利かない。喧嘩けんかなら相撲取すもうとりとでもやって
みせるが、こんな大僧おおぞうを四十人も前へ並ならべて、ただ一枚まいの舌をたたいて恐縮きょうしゅ
くさせる手際はない。しかしこんな田舎者いなかものに弱身を見せると癖くせになると思ったから、なる
べく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった。最初のうちは、生徒も烟けむに捲まかれてぼんやり
していたから、それ見ろとますます得意になって、べらんめい調を用いてたら、一番前の列の真中まんな
かに居た、一番強そうな奴が、いきなり起立して先生と云う。そら来たと思いながら、何だと聞いたら、
「あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣やって、おくれんかな、もし」と云った。おくれん

296 :山師さん:2016/05/19(木) 00:03:32.48 ID:xGA19+n4
かな、もしは生温なまぬるい言葉だ。早過ぎるなら、ゆっくり云ってやるが、おれは江戸っ子だから君等
きみらの言葉は使えない、分わからなければ、分るまで待ってるがいいと答えてやった。この調子で二時
間目は思ったより、うまく行った。ただ帰りがけに生徒の一人がちょっとこの問題を解釈をしておくれん
かな、もし、と出来そうもない幾何きかの問題を持って逼せまったには冷汗ひやあせを流した。仕方がな
いから何だか分らない、この次教えてやると急いで引き揚あげたら、生徒がわあと囃はやした。その中に
出来ん出来んと云う声が聞きこえる。箆棒べらぼうめ、先生だって、出来ないのは当り前だ。出来ないの
を出来ないと云うのに不思議があるもんか。そんなものが出来るくらいなら四十円でこんな田舎へくるも
んかと控所へ帰って来た。今度はどうだとまた山嵐が聞いた。うんと云ったが、うんだけでは気が済まな
かったから、この学校の生徒は分らずやだなと云ってやった。山嵐は妙みょうな顔をしていた。
 三時間目も、四時間目も昼過ぎの一時間も大同小異であった。最初の日に出た級は、いずれも少々ずつ
失敗した。教師ははたで見るほど楽じゃないと思った。授業はひと通り済んだが、まだ帰れない、三時ま
でぽつ然ねんとして待ってなくてはならん。三時になると、受持級の生徒が自分の教室を掃除そうじして
報知しらせにくるから検分をするんだそうだ。それから、出席簿しゅっせきぼを一応調べてようやくお暇
ひまが出る。いくら月給で買われた身体からだだって、あいた時間まで学校へ縛しばりつけて机と睨にら
めっくらをさせるなんて法があるものか。しかしほかの連中はみんな大人おとなしくご規則通りやってる
から新参のおればかり、だだを捏こねるのもよろしくないと思って我慢がまんしていた。帰りがけに、君
何でもかんでも三時過すぎまで学校にいさせるのは愚おろかだぜと山嵐に訴えたら、山嵐はそうさアハハ
ハと笑ったが、あとから真面目まじめになって、君あまり学校の不平を云うと、いかんぜ。云うなら僕ぼ
くだけに話せ、随分ずいぶん妙な人も居るからなと忠告がましい事を云った。四つ角で分れたから詳くわ
しい事は聞くひまがなかった。
 それからうちへ帰ってくると、宿の亭主ていしゅがお茶を入れましょうと云ってやって来る。お茶を入
れると云うからご馳走ちそうをするのかと思うと、おれの茶を遠慮えんりょなく入れて自分が飲むのだ。
この様子では留守中るすちゅうも勝手にお茶を入れましょうを一人ひとりで履行りこうしているかも知れ
ない。亭主が云うには手前は書画骨董しょがこっとうがすきで、とうとうこんな商買を内々で始めるよう
になりました。あなたもお見受け申すところ大分ご風流でいらっしゃるらしい。ちと道楽にお始めなすっ
てはいかがですと、飛んでもない勧誘かんゆうをやる。二年前ある人の使つかいに帝国ていこくホテルへ
行った時は錠前じょうまえ直しと間違まちがえられた事がある。ケットを被かぶって、鎌倉かまくらの大
仏を見物した時は車屋から親方と云われた。その外今日こんにちまで見損みそくなわれた事は随分あるが
、まだおれをつらまえて大分ご風流でいらっしゃると云ったものはない。大抵たいていはなりや様子でも
分る。風流人なんていうものは、画えを見ても、頭巾ずきんを被かぶるか短冊たんざくを持ってるものだ
。このおれを風流人だなどと真面目に云うのはただの曲者くせものじゃない。おれはそんな呑気のんきな
隠居いんきょのやるような事は嫌きらいだと云ったら、亭主はへへへへと笑いながら、いえ始めから好き

297 :山師さん:2016/05/19(木) 00:03:44.53 ID:xGA19+n4
なものは、どなたもございませんが、いったんこの道にはいるとなかなか出られませんと一人で茶を注い
で妙な手付てつきをして飲んでいる。実はゆうべ茶を買ってくれと頼たのんでおいたのだが、こんな苦い
濃こい茶はいやだ。一杯ぱい飲むと胃に答えるような気がする。今度からもっと苦くないのを買ってくれ
と云ったら、かしこまりましたとまた一杯しぼって飲んだ。人の茶だと思って無暗むやみに飲む奴やつだ
。主人が引き下がってから、明日の下読したよみをしてすぐ寝ねてしまった。
 それから毎日毎日学校へ出ては規則通り働く、毎日毎日帰って来ると主人がお茶を入れましょうと出て
くる。一週間ばかりしたら学校の様子もひと通りは飲み込めたし、宿の夫婦の人物も大概たいがいは分っ
た。ほかの教師に聞いてみると辞令を受けて一週間から一ヶ月ぐらいの間は自分の評判がいいだろうか、
悪わるいだろうか非常に気に掛かかるそうであるが、おれは一向そんな感じはなかった。教場で折々しく
じるとその時だけはやな心持ちだが三十分ばかり立つと奇麗きれいに消えてしまう。おれは何事によらず
長く心配しようと思っても心配が出来ない男だ。教場のしくじりが生徒にどんな影響えいきょうを与あた
えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を呈ていするかまるで無頓着むとんじゃくであった。おれは前
に云う通りあまり度胸の据すわった男ではないのだが、思い切りはすこぶるいい人間である。この学校が
いけなければすぐどっかへ行ゆく覚悟かくごでいたから、狸たぬきも赤シャツも、ちっとも恐おそろしく
はなかった。まして教場の小僧こぞう共なんかには愛嬌あいきょうもお世辞も使う気になれなかった。学
校はそれでいいのだが下宿の方はそうはいかなかった。亭主が茶を飲みに来るだけなら我慢もするが、い
ろいろな者を持ってくる。始めに持って来たのは何でも印材で、十とおばかり並ならべておいて、みんな
で三円なら安い物だお買いなさいと云う。田舎巡いなかまわりのヘボ絵師じゃあるまいし、そんなものは
入らないと云ったら、今度は華山かざんとか何とか云う男の花鳥の掛物かけものをもって来た。自分で床
とこの間まへかけて、いい出来じゃありませんかと云うから、そうかなと好加減いいかげんに挨拶あいさ
つをすると、華山には二人ふたりある、一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この幅ふくはそ
の何とか華山の方だと、くだらない講釈をしたあとで、どうです、あなたなら十五円にしておきます。お
買いなさいと催促さいそくをする。金がないと断わると、金なんか、いつでもようございますとなかなか
頑固がんこだ。金があつても買わないんだと、その時は追っ払ぱらっちまった。その次には鬼瓦おにがわ
らぐらいな大硯おおすずりを担ぎ込んだ。これは端渓たんけいです、端渓ですと二遍へんも三遍も端渓が
るから、面白半分に端渓た何だいと聞いたら、すぐ講釈を始め出した。端渓には上層中層下層とあって、
今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、この眼がんをご覧なさい。眼が三つあるのは
珍めずらしい。溌墨はつぼくの具合も至極よろしい、試してご覧なさいと、おれの前へ大きな硯を突つき
つける。いくらだと聞くと、持主が支那しなから持って帰って来て是非売りたいと云いますから、お安く
して三十円にしておきましょうと云う。この男は馬鹿ばかに相違そういない。学校の方はどうかこうか無
事に勤まりそうだが、こう骨董責こっとうぜめに逢あってはとても長く続きそうにない。

298 :山師さん:2016/05/19(木) 00:03:56.51 ID:xGA19+n4
 そのうち学校もいやになった。  ある日の晩大町おおまちと云う所を散歩していたら郵便局の隣とな
りに蕎麦そばとかいて、下に東京と注を加えた看板があった。おれは蕎麦が大好きである。東京に居おっ
た時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香においをかぐと、どうしても暖簾のれんがくぐりたくなった。今日
までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。ついでだから一
杯食って行こうと思って上がり込んだ。見ると看板ほどでもない。東京と断ことわる以上はもう少し奇麗
にしそうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、滅法めっぽうきたない。畳たたみは色が変っ
てお負けに砂でざらざらしている。壁かべは煤すすで真黒まっくろだ。天井てんじょうはランプの油烟ゆ
えんで燻くすぼってるのみか、低くって、思わず首を縮めるくらいだ。ただ麗々と蕎麦の名前をかいて張
り付けたねだん付けだけは全く新しい。何でも古いうちを買って二三日にさんち前から開業したに違ちが
いなかろう。ねだん付の第一号に天麩羅てんぷらとある。おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。
するとこの時まで隅すみの方に三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食ってた連中れんじゅうが
、ひとしくおれの方を見た。部屋へやが暗いので、ちょっと気がつかなかったが顔を合せると、みんな学
校の生徒である。先方で挨拶あいさつをしたから、おれも挨拶をした。その晩は久ひさし振ぶりに蕎麦を
食ったので、旨うまかったから天麩羅を四杯平たいらげた。
 翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顔
を見てみんなわあと笑った。おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ可笑おかしいかと聞いた。する
と生徒の一人ひとりが、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。四杯食おうが五杯食おうがおれの銭
でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。十分立って次の教場
へ出ると一つ天麩羅四杯なり。但ただし笑うべからず。と黒板にかいてある。さっきは別に腹も立たなか
ったが今度は癪しゃくに障さわった。冗談じょうだんも度を過ごせばいたずらだ。焼餅やきもちの黒焦く
ろこげのようなもので誰だれも賞ほめ手はない。田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押おして行
っても構わないと云う了見りょうけんだろう。一時間あるくと見物する町もないような狭せまい都に住ん
で、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露にちろ戦争のように触ふれちらかすんだろう。憐あわれ
な奴等やつらだ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢うえきばちの楓
かえでみたような小人しょうじんが出来るんだ。無邪気むじゃきならいっしょに笑ってもいいが、こりゃ
なんだ。小供の癖くせに乙おつに毒気を持ってる。おれはだまって、天麩羅を消して、こんないたずらが
面白いか、卑怯ひきょうな冗談だ。君等は卑怯と云う意味を知ってるか、と云ったら、自分がした事を笑
われて怒おこるのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。やな奴だ。わざわざ東京から、こんな奴
を教えに来たのかと思ったら情なくなった。余計な減らず口を利かないで勉強しろと云って、授業を始め
てしまった。それから次の教場へ出たら天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなりと書いてある。
どうも始末に終えない。あんまり腹が立ったから、そんな生意気な奴は教えないと云ってすたすた帰って

299 :山師さん:2016/05/19(木) 00:04:08.64 ID:xGA19+n4
来てやった。生徒は休みになって喜んだそうだ。こうなると学校より骨董の方がまだましだ。
 天麩羅蕎麦もうちへ帰って、一晩寝たらそんなに肝癪かんしゃくに障らなくなった。学校へ出てみると
、生徒も出ている。何だか訳が分らない。それから三日ばかりは無事であったが、四日目の晩に住田すみ
たと云う所へ行って団子だんごを食った。この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばか
り、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓ゆうかくがある。おれのはいった
団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみ
た。今度は生徒にも逢わなかったから、誰だれも知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場
へはいると団子二皿さら七銭と書いてある。実際おれは二皿食って七銭払はらった。どうも厄介やっかい
な奴等だ。二時間目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。あきれ返った奴等だ
。団子がそれで済んだと思ったら今度は赤手拭あかてぬぐいと云うのが評判になった。何の事だと思った
ら、つまらない来歴だ。おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極きめている。ほかの所は何
を見ても東京の足元にも及およばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってや
ろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛でかける。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶ
ら下げて行く。この手拭が湯に染そまった上へ、赤い縞しまが流れ出したのでちょっと見ると紅色べにい
ろに見える。おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。それで
生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云うんだそうだ。どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。まだあ
る。温泉は三階の新築で上等は浴衣ゆかたをかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目てんも
くへ茶を載のせて出す。おれはいつでも上等へはいった。すると四十円の月給で毎日上等へはいるのは贅
沢ぜいたくだと云い出した。余計なお世話だ。まだある。湯壺ゆつぼは花崗石みかげいしを畳たたみ上げ
て、十五畳敷じょうじきぐらいの広さに仕切ってある。大抵たいていは十三四人漬つかってるがたまには
誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快
ゆかいだ。おれは人の居ないのを見済みすましては十五畳の湯壺を泳ぎ巡まわって喜んでいた。ところが
ある日三階から威勢いせいよく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗のぞいてみると、大きな札へ黒々
と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼はりつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼
札はりふだはおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは断念した。泳ぐのは
断念したが、学校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚おどろいた。
何だか生徒全体がおれ一人を探偵たんていしているように思われた。くさくさした。生徒が何を云ったっ
て、やろうと思った事をやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえるような所へ
来たのかと思うと情なくなった。それでうちへ帰ると相変らず骨董責である。



 学校には宿直があって、職員が代る代るこれをつとめる。但ただし狸たぬきと赤シャツは例外である。
何でこの両人が当然の義務を免まぬかれるのかと聞いてみたら、奏任待遇そうにんたいぐうだからと云う

300 :山師さん:2016/05/19(木) 00:04:20.56 ID:xGA19+n4
。面白くもない。月給はたくさんとる、時間は少ない、それで宿直を逃のがれるなんて不公平があるもの
か。勝手な規則をこしらえて、それが当あたり前まえだというような顔をしている。よくまああんなにず
うずうしく出来るものだ。これについては大分不平であるが、山嵐やまあらしの説によると、いくら一人
ひとりで不平を並ならべたって通るものじゃないそうだ。一人だって二人ふたりだって正しい事なら通り
そうなものだ。山嵐は might is right という英語を引いて説諭せつゆを加えたが、何
だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の権利と云う意味だそうだ。強者の権利ぐらいなら昔むか
しから知っている。今さら山嵐から講釈をきかなくってもいい。強者の権利と宿直とは別問題だ。狸や赤
シャツが強者だなんて、誰だれが承知するものか。議論は議論としてこの宿直がいよいよおれの番に廻ま
わって来た。一体疳性かんしょうだから夜具やぐ蒲団ふとんなどは自分のものへ楽に寝ないと寝たような
心持ちがしない。小供の時から、友達のうちへ泊とまった事はほとんどないくらいだ。友達のうちでさえ
厭いやなら学校の宿直はなおさら厭だ。厭だけれども、これが四十円のうちへ籠こもっているなら仕方が
ない。我慢がまんして勤めてやろう。
 教師も生徒も帰ってしまったあとで、一人ぽかんとしているのは随分ずいぶん間が抜ぬけたものだ。宿
直部屋は教場の裏手にある寄宿舎の西はずれの一室だ。ちょっとはいってみたが、西日をまともに受けて
、苦しくって居たたまれない。田舎いなかだけあって秋がきても、気長に暑いもんだ。生徒の賄まかない
を取りよせて晩飯を済ましたが、まずいには恐おそれ入いった。よくあんなものを食って、あれだけに暴
れられたもんだ。それで晩飯を急いで四時半に片付けてしまうんだから豪傑ごうけつに違ちがいない。飯
は食ったが、まだ日が暮くれないから寝ねる訳に行かない。ちょっと温泉に行きたくなった。宿直をして
、外へ出るのはいい事だか、悪わるい事だかしらないが、こうつくねんとして重禁錮じゅうきんこ同様な
憂目うきめに逢あうのは我慢の出来るもんじゃない。始めて学校へ来た時当直の人はと聞いたら、ちょっ
と用達ようたしに出たと小使こづかいが答えたのを妙みょうだと思ったが、自分に番が廻まわってみると
思い当る。出る方が正しいのだ。おれは小使にちょっと出てくると云ったら、何かご用ですかと聞くから
、用じゃない、温泉へはいるんだと答えて、さっさと出掛でかけた。赤手拭あかてぬぐいは宿へ忘れて来
たのが残念だが今日は先方で借りるとしよう。
 それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく日暮方ひぐれがたになったから、汽車へ乗
って古町こまちの停車場ていしゃばまで来て下りた。学校まではこれから四丁だ。訳はないとあるき出す
と、向うから狸が来た。狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだろう。すたすた急ぎ足に
やってきたが、擦すれ違ちがった時おれの顔を見たから、ちょっと挨拶あいさつをした。すると狸はあな
たは今日は宿直ではなかったですかねえと真面目まじめくさって聞いた。なかったですかねえもないもん
だ。二時間前おれに向って今夜は始めての宿直ですね。ご苦労さま。と礼を云ったじゃないか。校長なん
かになるといやに曲りくねった言葉を使うもんだ。おれは腹が立ったから、ええ宿直です。宿直ですから
、これから帰って泊る事はたしかに泊りますと云い捨てて済ましてあるき出した。竪町たてまちの四つ角

301 :山師さん:2016/05/19(木) 00:04:32.56 ID:xGA19+n4
までくると今度は山嵐やまあらしに出っ喰くわした。どうも狭せまい所だ。出てあるきさえすれば必ず誰
かに逢う。「おい君は宿直じゃないか」と聞くから「うん、宿直だ」と答えたら、「宿直が無暗むやみに
出てあるくなんて、不都合ふつごうじゃないか」と云った。「ちっとも不都合なもんか、出てあるかない
方が不都合だ」と威張いばってみせた。「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢うと面倒めんどうだ
ぜ」と山嵐に似合わない事を云うから「校長にはたった今逢った。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨
でしょうと校長が、おれの散歩をほめたよ」と云って、面倒臭くさいから、さっさと学校へ帰って来た。
 それから日はすぐくれる。くれてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽あ
きたから、寝られないまでも床とこへはいろうと思って、寝巻に着換きがえて、蚊帳かやを捲まくって、
赤い毛布けっとを跳はねのけて、とんと尻持しりもちを突ついて、仰向あおむけになった。おれが寝ると
きにとんと尻持をつくのは小供の時からの癖くせだ。わるい癖だと云って小川町おがわまちの下宿に居た
時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込こんだ事がある。法律の書生なんてものは弱い癖に、
やに口が達者なもので、愚ぐな事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんどん音がするのはおれの尻
がわるいのじゃない。下宿の建築が粗末そまつなんだ。掛かケ合うなら下宿へ掛ケ合えと凹へこましてや
った。この宿直部屋は二階じゃないから、いくら、どしんと倒たおれても構わない。なるべく勢いきおい
よく倒れないと寝たような心持ちがしない。ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた
。ざらざらして蚤のみのようでもないからこいつあと驚おどろいて、足を二三度毛布けっとの中で振ふっ
てみた。するとざらざらと当ったものが、急に殖ふえ出して脛すねが五六カ所、股ももが二三カ所、尻の
下でぐちゃりと踏ふみ潰つぶしたのが一つ、臍へその所まで飛び上がったのが一つ――いよいよ驚ろいた
。早速さっそく起き上あがって、毛布けっとをぱっと後ろへ抛ほうると、蒲団の中から、バッタが五六十
飛び出した。正体の知れない時は多少気味が悪わるかったが、バッタと相場が極きまってみたら急に腹が
立った。バッタの癖に人を驚ろかしやがって、どうするか見ろと、いきなり括くくり枕まくらを取って、
二三度擲たたきつけたが、相手が小さ過ぎるから勢よく抛なげつける割に利目ききめがない。仕方がない
から、また布団の上へ坐すわって、煤掃すすはきの時に蓙ござを丸めて畳たたみを叩たたくように、そこ
ら近辺を無暗にたたいた。バッタが驚ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、おれの肩かただの、
頭だの鼻の先だのへくっ付いたり、ぶつかったりする。顔へ付いた奴やつは枕で叩く訳に行かないから、
手で攫つかんで、一生懸命に擲きつける。忌々いまいましい事に、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊
帳だから、ふわりと動くだけで少しも手答がない。バッタは擲きつけられたまま蚊帳へつらまっている。
死にもどうもしない。ようやくの事に三十分ばかりでバッタは退治たいじた。箒ほうきを持って来てバッ
タの死骸しがいを掃き出した。小使が来て何ですかと云うから、何ですかもあるもんか、バッタを床の中
に飼かっとく奴がどこの国にある。間抜まぬけめ。と叱しかったら、私は存じませんと弁解をした。存じ
ませんで済むかと箒を椽側えんがわへ抛ほうり出したら、小使は恐る恐る箒を担いで帰って行った。

302 :山師さん:2016/05/19(木) 00:04:44.57 ID:xGA19+n4
 おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。すると六人出て来た。六人だろうが十人だろうが構
うものか。寝巻のまま腕うでまくりをして談判を始めた。
「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と真先まっさきの一人がいった。やに落ち付いていやがる。この学校じゃ校長ばかり
じゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」と云ったが、生憎あいにく掃き出してしまって一
匹ぴきも居ない。また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら、「もう掃溜はきだめ
へ棄すててしまいましたが、拾って参りましょうか」と聞いた。「うんすぐ拾って来い」と云うと小使は
急いで馳かけ出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり載のせて来て「どうもお気の毒ですが、生憎夜でこ
れだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」と云う。小使まで馬鹿ばかだ。
おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の
事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣やり
込こめた。「篦棒べらぼうめ、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕つらまえてなもした何だ。菜
飯なめしは田楽でんがくの時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜
飯とは違うぞな、もし」と云った。いつまで行ってもなもしを使う奴だ。
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼たのん
だ」
「誰も入れやせんがな」
「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
「イナゴは温ぬくい所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。―
―さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」
 けちな奴等やつらだ。自分で自分のした事が云えないくらいなら、てんでしないがいい。証拠しょうこ
さえ挙がらなければ、しらを切るつもりで図太く構えていやがる。おれだって中学に居た時分は少しはい
たずらもしたもんだ。しかしだれがしたと聞かれた時に、尻込みをするような卑怯ひきょうな事はただの
一度もなかった。したものはしたので、しないものはしないに極きまってる。おれなんぞは、いくら、い
たずらをしたって潔白なものだ。嘘を吐ついて罰ばつを逃にげるくらいなら、始めからいたずらなんかや
るものか。いたずらと罰はつきもんだ。罰があるからいたずらも心持ちよく出来る。いたずらだけで罰は
ご免蒙めんこうむるなんて下劣げれつな根性がどこの国に流行はやると思ってるんだ。金は借りるが、返
す事はご免だと云う連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違そういない。全体中学校へ何し
にはいってるんだ。学校へはいって、嘘を吐いて、胡魔化ごまかして、陰かげでこせこせ生意気な悪いた
ずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと癇違かんちがいをしていやがる。話せ
ない雑兵ぞうひょうだ。
 おれはこんな腐くさった了見りょうけんの奴等と談判するのは胸糞むなくそが悪わるいから、「そんな
に云われなきゃ、聞かなくっていい。中学校へはいって、上品も下品も区別が出来ないのは気の毒なもの

303 :山師さん:2016/05/19(木) 00:04:56.67 ID:xGA19+n4
だ」と云って六人を逐おっ放ぱなしてやった。おれは言葉や様子こそあまり上品じゃないが、心はこいつ
らよりも遥はるかに上品なつもりだ。六人は悠々ゆうゆうと引き揚あげた。上部うわべだけは教師のおれ
よりよっぽどえらく見える。実は落ち付いているだけなお悪るい。おれには到底とうていこれほどの度胸
はない。
 それからまた床へはいって横になったら、さっきの騒動そうどうで蚊帳の中はぶんぶん唸うなっている
。手燭てしょくをつけて一匹ずつ焼くなんて面倒な事は出来ないから、釣手つりてをはずして、長く畳た
たんでおいて部屋の中で横竪よこたて十文字に振ふるったら、環かんが飛んで手の甲こうをいやというほ
ど撲ぶった。三度目に床へはいった時は少々落ち付いたがなかなか寝られない。時計を見ると十時半だ。
考えてみると厄介な所へ来たもんだ。一体中学の先生なんて、どこへ行っても、こんなものを相手にする
なら気の毒なものだ。よく先生が品切れにならない。よっぽど辛防しんぼう強い朴念仁ぼくねんじんがな
るんだろう。おれには到底やり切れない。それを思うと清きよなんてのは見上げたものだ。教育もない身
分もない婆ばあさんだが、人間としてはすこぶる尊たっとい。今まではあんなに世話になって別段難有あ
りがたいとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。越後えち
ごの笹飴ささあめが食いたければ、わざわざ越後まで買いに行って食わしてやっても、食わせるだけの価
値は充分じゅうぶんある。清はおれの事を欲がなくって、真直まっすぐな気性だと云って、ほめるが、ほ
められるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢いたくなった。
 清の事を考えながら、のつそつしていると、突然とつぜんおれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあ
ろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子ひょうしを取って床板を踏みならす音がした。す
ると足音に比例した大きな鬨ときの声が起おこった。おれは何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起き
た。飛び起きる途端とたんに、ははあさっきの意趣返いしゅがえしに生徒があばれるのだなと気がついた
。手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうちは罪は消えないもんだ。わるい事は、手前達に覚
おぼえがあるだろう。本来なら寝てから後悔こうかいしてあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。た
とい、あやまらないまでも恐れ入って、静粛せいしゅくに寝ているべきだ。それを何だこの騒さわぎは。
寄宿舎を建てて豚ぶたでも飼っておきあしまいし。気狂きちがいじみた真似まねも大抵たいていにするが
いい。どうするか見ろと、寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、楷子段はしごだんを三股半みまたはんに二
階まで躍おどり上がった。すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れていたのが、急
に静まり返って、人声どころか足音もしなくなった。これは妙だ。ランプはすでに消してあるから、暗く
てどこに何が居るか判然と分わからないが、人気ひとけのあるとないとは様子でも知れる。長く東から西
へ貫つらぬいた廊下ろうかには鼠ねずみ一匹ぴきも隠かくれていない。廊下のはずれから月がさして、遥
か向うが際どく明るい。どうも変だ、おれは小供の時から、よく夢ゆめを見る癖があって、夢中むちゅう
に跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑われた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾った夢
を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢い

304 :山師さん:2016/05/19(木) 00:05:08.53 ID:xGA19+n4
きおいで尋たずねたくらいだ。その時は三日ばかりうち中じゅうの笑い草になって大いに弱った。ことに
よると今のも夢かも知れない。しかしたしかにあばれたに違いないがと、廊下の真中まんなかで考え込ん
でいると、月のさしている向うのはずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまって響ひびいたかと思
う間もなく、前のように拍子を取って、一同が床板ゆかいたを踏み鳴らした。それ見ろ夢じゃないやっぱ
り事実だ。静かにしろ、夜なかだぞ、とこっちも負けんくらいな声を出して、廊下を向うへ馳かけだした
。おれの通る路みちは暗い、ただはずれに見える月あかりが目標めじるしだ。おれが馳け出して二間も来
たかと思うと、廊下の真中で、堅かたい大きなものに向脛むこうずねをぶつけて、あ痛いが頭へひびく間
に、身体はすとんと前へ抛ほうり出された。こん畜生ちきしょうと起き上がってみたが、馳けられない。
気はせくが、足だけは云う事を利かない。じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静
まり返って、森しんとしている。いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。まるで
豚だ。こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を極きめて
寝室しんしつの一つを開けて中を検査しようと思ったが開かない。錠じょうをかけてあるのか、机か何か
積んで立て懸かけてあるのか、押おしても、押しても決して開かない。今度は向う合せの北側の室へやを
試みた。開かない事はやっぱり同然である。おれが戸を開けて中に居る奴を引っ捕つらまえてやろうと、
焦慮いらってると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が始まった。この野郎やろう申し合せて、東西相応
じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか分らない。正直に白状してしまうが、お
れは勇気のある割合に智慧ちえが足りない。こんな時にはどうしていいかさっぱりわからない。わからな
いけれども、決して負けるつもりはない。このままに済ましてはおれの顔にかかわる。江戸えどっ子は意
気地いくじがないと云われるのは残念だ。宿直をして鼻垂はなったれ小僧こぞうにからかわれて、手のつ
けようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本は
たもとだ。旗本の元は清和源氏せいわげんじで、多田ただの満仲まんじゅうの後裔こうえいだ。こんな土
百姓どびゃくしょうとは生まれからして違うんだ。ただ智慧のないところが惜しいだけだ。どうしていい
か分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の
中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あし
た勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る
。おれはこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待っていた。蚊がぶんぶん来
たけれども何ともなかった。さっき、ぶつけた向脛を撫なでてみると、何だかぬらぬらする。血が出るん
だろう。血なんか出たければ勝手に出るがいい。そのうち最前からの疲つかれが出て、ついうとうと寝て
しまった。何だか騒がしいので、眼めが覚めた時はえっ糞くそしまったと飛び上がった。おれの坐すわっ
てた右側にある戸が半分あいて、生徒が二人、おれの前に立っている。おれは正気に返って、はっと思う
途端に、おれの鼻の先にある生徒の足を引ひっ攫つかんで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたり

305 :山師さん:2016/05/19(木) 00:05:20.68 ID:xGA19+n4
と仰向あおむけに倒れた。ざまを見ろ。残る一人がちょっと狼狽ろうばいしたところを、飛びかかって、
肩を抑おさえて二三度こづき廻したら、あっけに取られて、眼をぱちぱちさせた。さあおれの部屋まで来
いと引っ立てると、弱虫だと見えて、一も二もなく尾ついて来た。夜よはとうにあけている。
 おれが宿直部屋へ連れてきた奴を詰問きつもんし始めると、豚は、打ぶっても擲いても豚だから、ただ
知らんがなで、どこまでも通す了見と見えて、けっして白状しない。そのうち一人来る、二人来る、だん
だん二階から宿直部屋へ集まってくる。見るとみんな眠ねむそうに瞼まぶたをはらしている。けちな奴等
だ。一晩ぐらい寝ないで、そんな面をして男と云われるか。面でも洗って議論に来いと云ってやったが、
誰も面を洗いに行かない。
 おれは五十人あまりを相手に約一時間ばかり押問答おしもんどうをしていると、ひょっくり狸がやって
来た。あとから聞いたら、小使が学校に騒動がありますって、わざわざ知らせに行ったのだそうだ。これ
しきの事に、校長を呼ぶなんて意気地がなさ過ぎる。それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ。
 校長はひと通りおれの説明を聞いた。生徒の言草いいぐさもちょっと聞いた。追って処分するまでは、
今まで通り学校へ出ろ。早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間に間に合わないから、早くしろと云って
寄宿生をみんな放免ほうめんした。手温てぬるい事だ。おれなら即席そくせきに寄宿生をことごとく退校
してしまう。こんな悠長ゆうちょうな事をするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。その上おれに向って
、あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日はご授業に及およばんと云うから、おれはこう答えた。「
いえ、ちっとも心配じゃありません。こんな事が毎晩あっても、命のある間は心配にゃなりません。授業
はやります、一晩ぐらい寝なくって、授業が出来ないくらいなら、頂戴ちょうだいした月給を学校の方へ
割戻わりもどします」校長は何と思ったものか、しばらくおれの顔を見つめていたが、しかし顔が大分は
れていますよと注意した。なるほど何だか少々重たい気がする。その上べた一面痒かゆい。蚊がよっぽと
刺さしたに相違ない。おれは顔中ぼりぼり掻かきながら、顔はいくら膨はれたって、口はたしかにきけま
すから、授業には差し支つかえませんと答えた。校長は笑いながら、大分元気ですねと賞ほめた。実を云
うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。



 君釣つりに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味の悪わるいように優しい声を出す
男である。まるで男だか女だか分わかりゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じ
ゃないか。物理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。
 おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あん
まりないが、子供の時、小梅こうめの釣堀つりぼりで鮒ふなを三匹びき釣った事がある。それから神楽坂
かぐらざかの毘沙門びしゃもんの縁日えんにちで八寸ばかりの鯉こいを針で引っかけて、しめたと思った
ら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えても惜おしいと云いったら、赤シャツは顋あごを前の方
へ突つき出してホホホホと笑った。何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。「それじゃ、ま
だ釣りの味は分らんですな。お望みならちと伝授しましょう」とすこぶる得意である。だれがご伝授をう

306 :山師さん:2016/05/19(木) 00:05:32.60 ID:xGA19+n4
けるものか。一体釣や猟りょうをする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、殺生せっ
しょうをして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽に極きまってる。釣や猟を
しなくっちゃ活計かっけいがたたないなら格別だが、何不足なく暮くらしている上に、生き物を殺さなく
っちゃ寝られないなんて贅沢ぜいたくな話だ。こう思ったが向むこうは文学士だけに口が達者だから、議
論じゃ叶かなわないと思って、だまってた。すると先生このおれを降参させたと疳違かんちがいして、早
速伝授しましょう。おひまなら、今日どうです、いっしょに行っちゃ。吉川よしかわ君と二人ふたりぎり
じゃ、淋さむしいから、来たまえとしきりに勧める。吉川君というのは画学の教師で例の野だいこの事だ
。この野だは、どういう了見りょうけんだか、赤シャツのうちへ朝夕出入でいりして、どこへでも随行ず
いこうして行ゆく。まるで同輩どうはいじゃない。主従しゅうじゅうみたようだ。赤シャツの行く所なら
、野だは必ず行くに極きまっているんだから、今さら驚おどろきもしないが、二人で行けば済むところを
、なんで無愛想ぶあいそのおれへ口を掛かけたんだろう。大方高慢こうまんちきな釣道楽で、自分の釣る
ところをおれに見せびらかすつもりかなんかで誘さそったに違いない。そんな事で見せびらかされるおれ
じゃない。鮪まぐろの二匹や三匹釣ったって、びくともするもんか。おれだって人間だ、いくら下手へた
だって糸さえ卸おろしゃ、何かかかるだろう、ここでおれが行かないと、赤シャツの事だから、下手だか
ら行かないんだ、嫌きらいだから行かないんじゃないと邪推じゃすいするに相違そういない。おれはこう
考えたから、行きましょうと答えた。それから、学校をしまって、一応うちへ帰って、支度したくを整え
て、停車場で赤シャツと野だを待ち合せて浜はまへ行った。船頭は一人ひとりで、船ふねは細長い東京辺
では見た事もない恰好かっこうである。さっきから船中見渡みわたすが釣竿つりざおが一本も見えない。
釣竿なしで釣が出来るものか、どうする了見だろうと、野だに聞くと、沖釣おきづりには竿は用いません
、糸だけでげすと顋を撫なでて黒人くろうとじみた事を云った。こう遣やり込こめられるくらいならだま
っていればよかった。
 船頭はゆっくりゆっくり漕こいでいるが熟練は恐おそろしいもので、見返みかえると、浜が小さく見え
るくらいもう出ている。高柏寺こうはくじの五重の塔とうが森の上へ抜ぬけ出して針のように尖とんがっ
てる。向側むこうがわを見ると青嶋あおしまが浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると
石と松まつばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望ちょうぼうし
ていい景色だと云ってる。野だは絶景でげすと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相
違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹ふかれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松を見
たまえ、幹が真直まっすぐで、上が傘かさのように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野
だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくり
ですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙だまっ
ていた。舟は島を右に見てぐるりと廻まわった。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平た
いらだ。赤シャツのお陰かげではなはだ愉快ゆかいだ。出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思

307 :山師さん:2016/05/19(木) 00:05:44.59 ID:xGA19+n4
ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられん事もないですが、釣
をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。すると野だが
どうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議ほつぎをした。
赤シャツはそいつは面白い、吾々われわれはこれからそう云おうと賛成した。この吾々のうちにおれもは
いってるなら迷惑めいわくだ。おれには青嶋でたくさんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマド
ンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シ
ャツが気味の悪るい笑い方をした。なに誰も居ないから大丈夫だいじょうぶですと、ちょっとおれの方を
見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。おれは何だかやな心持ちがした。マドンナだろうが、小
旦那こだんなだろうが、おれの関係した事でないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分らない事を
言って分らないから聞いたって構やしませんてえような風をする。下品な仕草だ。これで当人は私わたし
も江戸えどっ子でげすなどと云ってる。マドンナと云うのは何でも赤シャツの馴染なじみの芸者の渾名あ
だなか何かに違いないと思った。なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たして眺ながめていれば世話は
ない。それを野だが油絵にでもかいて展覧会へ出したらよかろう。
 ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、錨いかりを卸した。幾尋いくひろあるかねと赤シャツが聞
くと、六尋むひろぐらいだと云う。六尋ぐらいじゃ鯛たいはむずかしいなと、赤シャツは糸を海へなげ込
んだ。大将鯛を釣る気と見える、豪胆ごうたんなものだ。野だは、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。
それになぎですからとお世辞を云いながら、これも糸を繰くり出して投げ入れる。何だか先に錘おもりの
ような鉛なまりがぶら下がってるだけだ。浮うきがない。浮がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度を
はかるようなものだ。おれには到底とうてい出来ないと見ていると、さあ君もやりたまえ糸はありますか
と聞く。糸はあまるほどあるが、浮がありませんと云ったら、浮がなくっちゃ釣が出来ないのは素人しろ
うとですよ。こうしてね、糸が水底みずそこへついた時分に、船縁ふなべりの所で人指しゆびで呼吸をは
かるんです、食うとすぐ手に答える。――そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと
思ったら何にもかからない、餌えがなくなってたばかりだ。いい気味きびだ。教頭、残念な事をしました
ね、今のはたしかに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお手際でさえ逃にげられちゃ、今日は
油断ができませんよ。しかし逃げられても何ですね。浮と睨にらめくらをしている連中よりはましですね
。ちょうど歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは妙みような事ばかり喋舌
しゃべる。よっぽど撲なぐりつけてやろうかと思った。おれだって人間だ、教頭ひとりで借り切った海じ
ゃあるまいし。広い所だ。鰹かつおの一匹ぐらい義理にだって、かかってくれるだろうと、どぼんと錘と
糸を抛ほうり込んでいい加減に指の先であやつっていた。
 しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。おれは考えた。こいつは魚に相違ない。生
きてるものでなくっちゃ、こうぴくつく訳がない。しめた、釣れたとぐいぐい手繰たぐり寄せた。おや釣
れましたかね、後世恐おそるべしだと野だがひやかすうち、糸はもう大概手繰り込んでただ五尺ばかりほ

308 :山師さん:2016/05/19(木) 00:05:56.59 ID:xGA19+n4
どしか、水に浸ついておらん。船縁から覗のぞいてみたら、金魚のような縞しまのある魚が糸にくっつい
て、右左へ漾ただよいながら、手に応じて浮き上がってくる。面白い。水際から上げるとき、ぽちゃりと
跳はねたから、おれの顔は潮水だらけになった。ようやくつらまえて、針をとろうとするがなかなか取れ
ない。捕つらまえた手はぬるぬるする。大いに気味がわるい。面倒だから糸を振ふって胴どうの間まへ擲
たたきつけたら、すぐ死んでしまった。赤シャツと野だは驚ろいて見ている。おれは海の中で手をざぶざ
ぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。まだ腥臭なまぐさい。もう懲こり懲ごりだ。何が釣れたって魚は
握にぎりたくない。魚も握られたくなかろう。そうそう糸を捲いてしまった。
 一番槍いちばんやりはお手柄てがらだがゴルキじゃ、と野だがまた生意気を云うと、ゴルキと云うと露
西亜ロシアの文学者みたような名だねと赤シャツが洒落しゃれた。そうですね、まるで露西亜の文学者で
すねと野だはすぐ賛成しやがる。ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝しばの写真師で、米のなる木が命
の親だろう。一体この赤シャツはわるい癖くせだ。誰だれを捕つらまえても片仮名の唐人とうじんの名を
並べたがる。人にはそれぞれ専門があったものだ。おれのような数学の教師にゴルキだか車力しゃりきだ
か見当がつくものか、少しは遠慮えんりょするがいい。云いうならフランクリンの自伝だとかプッシング
、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知ってる名を使うがいい。赤シャツは時々帝国文学とかいう真赤
まっかな雑誌を学校へ持って来て難有ありがたそうに読んでいる。山嵐やまあらしに聞いてみたら、赤シ
ャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。帝国文学も罪な雑誌だ。
 それから赤シャツと野だは一生懸命いっしょうけんめいに釣っていたが、約一時間ばかりのうちに二人
ふたりで十五六上げた。可笑おかしい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。鯛なんて薬
にしたくってもありゃしない。今日は露西亜文学の大当りだと赤シャツが野だに話している。あなたの手
腕しゅわんでゴルキなんですから、私わたしなんぞがゴルキなのは仕方がありません。当り前ですなと野
だが答えている。船頭に聞くとこの小魚は骨が多くって、まずくって、とても食えないんだそうだ。ただ
肥料こやしには出来るそうだ。赤シャツと野だは一生懸命に肥料を釣っているんだ。気の毒の至りだ。お
れは一匹ぴきで懲こりたから、胴の間へ仰向あおむけになって、さっきから大空を眺めていた。釣をする
よりこの方がよっぽど洒落しゃれている。
 すると二人は小声で何か話し始めた。おれにはよく聞きこえない、また聞きたくもない。おれは空を見
ながら清きよの事を考えている。金があって、清をつれて、こんな奇麗きれいな所へ遊びに来たらさぞ愉
快だろう。いくら景色がよくっても野だなどといっしょじゃつまらない。清は皺苦茶しわくちゃだらけの
婆さんだが、どんな所へ連れて出たって恥はずかしい心持ちはしない。野だのようなのは、馬車に乗ろう
が、船に乗ろうが、凌雲閣りょううんかくへのろうが、到底寄り付けたものじゃない。おれが教頭で、赤
シャツがおれだったら、やっぱりおれにへけつけお世辞を使って赤シャツを冷ひやかすに違いない。江戸
っ子は軽薄けいはくだと云うがなるほどこんなものが田舎巡いなかまわりをして、私わたしは江戸っ子で
げすと繰り返していたら、軽薄は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄の事だと田舎者が思うに極まってる。こん

309 :山師さん:2016/05/19(木) 00:06:08.62 ID:xGA19+n4
な事を考えていると、何だか二人がくすくす笑い出した。笑い声の間に何か云うが途切とぎれ途切れでと
んと要領を得ない。
「え? どうだか……」「……全くです……知らないんですから……罪ですね」「まさか……」「バッタ
を……本当ですよ」
 おれは外の言葉には耳を傾かたむけなかったが、バッタと云う野だの語ことばを聴きいた時は、思わず
きっとなった。野だは何のためかバッタと云う言葉だけことさら力を入れて、明瞭めいりょうにおれの耳
にはいるようにして、そのあとをわざとぼかしてしまった。おれは動かないでやはり聞いていた。
「また例の堀田ほったが……」「そうかも知れない……」「天麩羅てんぷら……ハハハハハ」「……煽動
せんどうして……」「団子だんごも?」
 言葉はかように途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというところをもって
推し測ってみると、何でもおれのことについて内所話ないしょばなしをしているに相違ない。話すならも
っと大きな声で話すがいい、また内所話をするくらいなら、おれなんか誘わなければいい。いけ好かない
連中だ。バッタだろうが雪踏せっただろうが、非はおれにある事じゃない。校長がひとまずあずけろと云
ったから、狸たぬきの顔にめんじてただ今のところは控ひかえているんだ。野だの癖に入らぬ批評をしや
がる。毛筆けふででもしゃぶって引っ込んでるがいい。おれの事は、遅おそかれ早かれ、おれ一人で片付
けてみせるから、差支さしつかえはないが、また例の堀田がとか煽動してとか云う文句が気にかかる。堀
田がおれを煽動して騒動そうどうを大きくしたと云う意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれを
いじめたと云うのか方角がわからない。青空を見ていると、日の光がだんだん弱って来て、少しはひやり
とする風が吹き出した。線香せんこうの烟けむりのような雲が、透すき徹とおる底の上を静かに伸のして
行ったと思ったら、いつしか底の奥おくに流れ込んで、うすくもやを掛かけたようになった。
 もう帰ろうかと赤シャツが思い出したように云うと、ええちょうど時分ですね。今夜はマドンナの君に
お逢あいですかと野だが云う。赤シャツは馬鹿ばかあ云っちゃいけない、間違いになると、船縁に身を倚
もたした奴やつを、少し起き直る。エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。聞いたって……と野だが振り返った時、お
れは皿さらのような眼めを野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてやった。野だはまぼしそうに引っ繰り返
って、や、こいつは降参だと首を縮めて、頭を掻かいた。何という猪口才ちょこざいだろう。
 船は静かな海を岸へ漕こぎ戻もどる。君釣つりはあまり好きでないと見えますねと赤シャツが聞くから
、ええ寝ねていて空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた巻烟草まきたばこを海の中へたたき込んだ
ら、ジュと音がして艪ろの足で掻き分けられた浪なみの上を揺ゆられながら漾ただよっていった。「君が
来たんで生徒も大いに喜んでいるから、奮発ふんぱつしてやってくれたまえ」と今度は釣にはまるで縁故
えんこもない事を云い出した。「あんまり喜んでもいないでしょう」「いえ、お世辞じゃない。全く喜ん
でいるんです、ね、吉川君」「喜んでるどころじゃない。大騒おおさわぎです」と野だはにやにやと笑っ
た。こいつの云う事は一々癪しゃくに障さわるから妙だ。「しかし君注意しないと、険呑けんのんですよ
」と赤シャツが云うから「どうせ険呑です。こうなりゃ険呑は覚悟かくごです」と云ってやった。実際お

310 :山師さん:2016/05/19(木) 00:06:20.63 ID:xGA19+n4
れは免職めんしょくになるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どっちか一つにする了見でいた。「
そう云っちゃ、取りつきどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから云うんだが、わるく
取っちゃ困る」「教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。僕も及およばずながら、同じ江戸っ子だから
、なるべく長くご在校を願って、お互たがいに力になろうと思って、これでも蔭ながら尽力じんりょくし
ているんですよ」と野だが人間並なみの事を云った。野だのお世話になるくらいなら首を縊くくって死ん
じまわあ。
「それでね、生徒は君の来たのを大変歓迎かんげいしているんだが、そこにはいろいろな事情があってね
。君も腹の立つ事もあるだろうが、ここが我慢がまんだと思って、辛防しんぼうしてくれたまえ。決して
君のためにならないような事はしないから」
「いろいろの事情た、どんな事情です」
「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分りますよ。僕ぼくが話さないでも自然と分って来るで
す、ね吉川君」
「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃ到底分りません。しかしだんだん分ります、僕が話
さないでも自然と分って来るです」と野だは赤シャツと同じような事を云う。
「そんな面倒めんどうな事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから伺うかがう
んです」
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこれだけの事
を云っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。
ところが学校というものはなかなか情実のあるもので、そう書生流に淡泊たんぱくには行ゆかないですか
らね」
「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏とぼしいと云うんですがね……」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書りれきしょにもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」
「正直にしていれば誰だれが乗じたって怖こわくはないです」
「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気を付けないとい
けないと云うんです」
 野だが大人おとなしくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫ともの方で船頭と釣の話
をしている。野だが居ないんでよっぽど話しよくなった。
「僕の前任者が、誰だれに乗ぜられたんです」
「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えない。また判然と証拠しょうこのない事だから云うと
こっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕等ぼくらも君を呼ん
だ甲斐かいがない。どうか気を付けてくれたまえ」
「気を付けろったって、これより気の付けようはありません。わるい事をしなけりゃ好いいんでしょう」
 赤シャツはホホホホと笑った。別段おれは笑われるような事を云った覚えはない。今日こんにちただ今
に至るまでこれでいいと堅かたく信じている。考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励しょ
うれいしているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正
直な純粋じゅんすいな人を見ると、坊ぼっちゃんだの小僧こぞうだのと難癖なんくせをつけて軽蔑けいべ
つする。それじゃ小学校や中学校で嘘うそをつくな、正直にしろと倫理りんりの先生が教えない方がいい

311 :山師さん:2016/05/19(木) 00:06:32.66 ID:xGA19+n4
。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のた
めにも当人のためにもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単
純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大いに感心して聞い
たもんだ。清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。
「無論悪わるい事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくっても、人の悪るいのが分らな
くっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。世の中には磊落らいらくなように見えても、淡泊なように
見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断の出来ないのがありますから……。大分
寒くなった。もう秋ですね、浜の方は靄もやでセピヤ色になった。いい景色だ。おい、吉川君どうだい、
あの浜の景色は……」と大きな声を出して野だを呼んだ。なあるほどこりゃ奇絶きぜつですね。時間があ
ると写生するんだが、惜おしいですね、このままにしておくのはと野だは大いにたたく。
 港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛ふえがヒューと鳴るとき、おれの乗っていた舟は磯いその砂へ
ざぐりと、舳へさきをつき込んで動かなくなった。お早うお帰りと、かみさんが、浜に立って赤シャツに
挨拶あいさつする。おれは船端ふなばたから、やっと掛声かけごえをして磯へ飛び下りた。



 野だは大嫌だいきらいだ。こんな奴やつは沢庵石たくあんいしをつけて海の底へ沈しずめちまう方が日
本のためだ。赤シャツは声が気に食わない。あれは持前の声をわざと気取ってあんな優しいように見せて
るんだろう。いくら気取ったって、あの面じゃ駄目だめだ。惚ほれるものがあったってマドンナぐらいな
ものだ。しかし教頭だけに野だよりむずかしい事を云いう。うちへ帰って、あいつの申し条を考えてみる
と一応もっとものようでもある。はっきりとした事は云わないから、見当がつきかねるが、何でも山嵐や
まあらしがよくない奴だから用心しろと云うのらしい。それならそうとはっきり断言するがいい、男らし
くもない。そうして、そんな悪わるい教師なら、早く免職めんしょくさしたらよかろう。教頭なんて文学
士の癖くせに意気地いくじのないもんだ。蔭口かげぐちをきくのでさえ、公然と名前が云えないくらいな
男だから、弱虫に極きまってる。弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろ
う。親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違ちがう。それにしても
世の中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気のあった友達が悪漢わるものだなんて、人を馬鹿
ばかにしている。大方田舎いなかだから万事東京のさかに行くんだろう。物騒ぶっそうな所だ。今に火事
が氷って、石が豆腐とうふになるかも知れない。しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたずらを
しそうもないがな。一番人望のある教師だと云うから、やろうと思ったら大抵たいていの事は出来るかも
知れないが、――第一そんな廻まわりくどい事をしないでも、じかにおれを捕つらまえて喧嘩けんかを吹
き懸かけりゃ手数が省ける訳だ。おれが邪魔じゃまになるなら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してく
れと云や、よさそうなもんだ。物は相談ずくでどうでもなる。向むこうの云い条がもっともなら、明日に
でも辞職してやる。ここばかり米が出来る訳でもあるまい。どこの果はてへ行ったって、のたれ死じには

312 :山師さん:2016/05/19(木) 00:06:44.69 ID:xGA19+n4
しないつもりだ。山嵐もよっぽど話せない奴だな。
 ここへ来た時第一番に氷水を奢おごったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっ
ちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一杯ぱいしか飲まなかったから一銭五厘りんしか払はらわしちゃ
ない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師さぎしの恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あ
した学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。おれは清きよから三円借りている。その三円は五年経たっ
た今日までまだ返さない。返せないんじゃない。返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめに
もおれの懐中かいちゅうをあてにしてはいない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしない
つもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付
けると同じ事になる。返さないのは清を踏ふみつけるのじゃない、清をおれの片破かたわれと思うからだ
。清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶あまちゃだろうが、他人から恵
めぐみを受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。
割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有ありがたいと恩に着るのは銭金で買える返礼
じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊たっとい
お礼と思わなければならない。
 おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発ふんぱつさせて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。山嵐は難
有ありがたいと思ってしかるべきだ。それに裏へ廻って卑劣ひれつな振舞ふるまいをするとは怪けしから
ん野郎やろうだ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をしてや
ろう。
 おれはここまで考えたら、眠ねむくなったからぐうぐう寝ねてしまった。あくる日は思う仔細しさいが
あるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところがなかなか出て来ない。うらなりが出て
来る。漢学の先生が出て来る。野だが出て来る。しまいには赤シャツまで出て来たが山嵐の机の上は白墨
はくぼくが一本竪たてに寝ているだけで閑静かんせいなものだ。おれは、控所ひかえじょへはいるや否や
返そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校まで握にぎって来た。
おれは膏あぶらっ手だから、開けてみると一銭五厘が汗あせをかいている。汗をかいてる銭を返しちゃ、
山嵐が何とか云うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。ところへ赤シャツが
来て昨日は失敬、迷惑めいわくでしたろうと云ったから、迷惑じゃありません、お蔭で腹が減りましたと
答えた。すると赤シャツは山嵐の机の上へ肱ひじを突ついて、あの盤台面ばんだいづらをおれの鼻の側面
へ持って来たから、何をするかと思ったら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれたま
え。まだ誰だれにも話しやしますまいねと云った。女のような声を出すだけに心配性な男と見える。話さ
ない事はたしかである。しかしこれから話そうと云う心持ちで、すでに一銭五厘手の平に用意しているく
らいだから、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ちと困る。赤シャツも赤シャツだ。山嵐と名を指さ
ないにしろ、あれほど推察の出来る謎なぞをかけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭
とも思えぬ無責任だ。元来ならおれが山嵐と戦争をはじめて鎬しのぎを削けずってる真中まんなかへ出て

313 :山師さん:2016/05/19(木) 00:06:56.65 ID:xGA19+n4
堂々とおれの肩かたを持つべきだ。それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つというもん
だ。
 おれは教頭に向むかって、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云ったら、赤シ
ャツは大いに狼狽ろうばいして、君そんな無法な事をしちゃ困る。僕ぼくは堀田ほった君の事について、
別段君に何も明言した覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑す
る。君は学校に騒動そうどうを起すつもりで来たんじゃなかろうと妙みょうに常識をはずれた質問をする
から、当あたり前まえです、月給をもらったり、騒動を起したりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと云
った。すると赤シャツはそれじゃ昨日の事は君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼
いらいに及およぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合っ
た。君大丈夫だいじょうぶかいと赤シャツは念を押おした。どこまで女らしいんだか奥行おくゆきがわか
らない。文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。辻褄つじつまの合わない、論理に欠けた
注文をして恬然てんぜんとしている。しかもこのおれを疑ぐってる。憚はばかりながら男だ。受け合った
事を裏へ廻って反古ほごにするようなさもしい了見りょうけんはもってるもんか。
 ところへ両隣りょうどなりの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ帰って行った。赤
シャツは歩あるき方から気取ってる。部屋の中を往来するのでも、音を立てないように靴くつの底をそっ
と落おとす。音を立てないであるくのが自慢じまんになるもんだとは、この時から始めて知った。泥棒ど
ろぼうの稽古けいこじゃあるまいし、当り前にするがいい。やがて始業の喇叭らっぱがなった。山嵐はと
うとう出て来ない。仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ出掛でかけた。
 授業の都合つごうで一時間目は少し後おくれて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控えて話を
している。山嵐もいつの間にか来ている。欠勤だと思ったら遅刻ちこくしたんだ。おれの顔を見るや否や
今日は君のお蔭で遅刻したんだ。罰金ばっきんを出したまえと云った。おれは机の上にあった一銭五厘を
出して、これをやるから取っておけ。先達せんだって通町とおりちょうで飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ
置くと、何を云ってるんだと笑いかけたが、おれが存外真面目まじめでいるので、つまらない冗談じょう
だんをするなと銭をおれの机の上に掃はき返した。おや山嵐の癖くせにどこまでも奢る気だな。
「冗談じゃない本当だ。おれは君に氷水を奢られる因縁いんえんがないから、出すんだ。取らない法があ
るか」
「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すんだ」
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」
 山嵐は冷然とおれの顔を見てふんと云った。赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣ひれつをあ
ばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだから動きがとれない。人がこんなに真赤ま
っかになってるのにふんという理窟りくつがあるものか。
「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ」
「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主ていしゅが来て君に出てもらいたいと云うから、その訳を聞

314 :山師さん:2016/05/19(木) 00:07:08.69 ID:xGA19+n4
いたら亭主の云うのはもっともだ。それでももう一応たしかめるつもりで今朝けさあすこへ寄って詳くわ
しい話を聞いてきたんだ」
 おれには山嵐の云う事が何の意味だか分らない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。そう自分だけで極めたって仕様があるか。訳が
あるなら、訳を話すが順だ。てんから亭主の云う方がもっともだなんて失敬千万な事を云うな」
「うん、そんなら云ってやろう。君は乱暴であの下宿で持て余あまされているんだ。いくら下宿の女房だ
って、下女たあ違うぜ。足を出して拭ふかせるなんて、威張いばり過ぎるさ」
「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うじゃ、君に困ってるんだ。下宿料の十円や十五円は懸物
かけものを一幅ぷく売りゃ、すぐ浮ういてくるって云ってたぜ」
「利いた風な事をぬかす野郎やろうだ。そんなら、なぜ置いた」
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだから、出ろと云うんだろう。
君出てやれ」
「当り前だ。居てくれと手を合せたって、居るものか。一体そんな云い懸がかりを云うような所へ周旋し
ゅうせんする君からしてが不埒ふらちだ」
「おれが不埒か、君が大人おとなしくないんだか、どっちかだろう」
 山嵐もおれに劣おとらぬ肝癪持かんしゃくもちだから、負け嫌ぎらいな大きな声を出す。控所に居た連
中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋あごを長くしてぼんやりしている。
おれは、別に恥はずかしい事をした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡みまわし
てやった。みんなが驚おどろいてるなかに野だだけは面白そうに笑っていた。おれの大きな眼めが、貴様
も喧嘩をするつもりかと云う権幕で、野だの干瓢かんぴょうづらを射貫いぬいた時に、野だは突然とつぜ
ん真面目な顔をして、大いにつつしんだ。少し怖こわかったと見える。そのうち喇叭が鳴る。山嵐もおれ
も喧嘩を中止して教場へ出た。

 午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。会議というものは生れて始
めてだからとんと容子ようすが分らないが、職員が寄って、たかって自分勝手な説をたてて、それを校長
が好い加減に纏まとめるのだろう。纏めるというのは黒白こくびゃくの決しかねる事柄ことがらについて
云うべき言葉だ。この場合のような、誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは暇潰
ひまつぶしだ。誰が何と解釈したって異説の出ようはずがない。こんな明白なのは即座そくざに校長が処
分してしまえばいいに。随分ずいぶん決断のない事だ。校長ってものが、これならば、何の事はない、煮
にえ切きらない愚図ぐずの異名だ。
 会議室は校長室の隣となりにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒い皮で張った椅子いす
が二十脚きゃくばかり、長いテーブルの周囲に並ならんでちょっと神田の西洋料理屋ぐらいな格だ。その
テーブルの端はじに校長が坐すわって、校長の隣りに赤シャツが構える。あとは勝手次第に席に着くんだ
そうだが、体操たいそうの教師だけはいつも席末に謙遜けんそんするという話だ。おれは様子が分らない
から、博物の教師と漢学の教師の間へはいり込こんだ。向うを見ると山嵐と野だが並んでる。野だの顔は
どう考えても劣等だ。喧嘩はしても山嵐の方が遥はるかに趣おもむきがある。おやじの葬式そうしきの時

315 :山師さん:2016/05/19(木) 00:07:20.75 ID:xGA19+n4
に小日向こびなたの養源寺ようげんじの座敷ざしきにかかってた懸物はこの顔によく似ている。坊主ぼう
ずに聞いてみたら韋駄天いだてんと云う怪物だそうだ。今日は怒おこってるから、眼をぐるぐる廻しちゃ
、時々おれの方を見る。そんな事で威嚇おどかされてたまるもんかと、おれも負けない気で、やっぱり眼
をぐりつかせて、山嵐をにらめてやった。おれの眼は恰好かっこうはよくないが、大きい事においては大
抵な人には負けない。あなたは眼が大きいから役者になるときっと似合いますと清がよく云ったくらいだ

 もう大抵お揃そろいでしょうかと校長が云うと、書記の川村と云うのが一つ二つと頭数を勘定かんじょ
うしてみる。一人足りない。一人不足ですがと考えていたが、これは足りないはずだ。唐茄子とうなすの
うらなり君が来ていない。おれとうらなり君とはどう云う宿世すくせの因縁かしらないが、この人の顔を
見て以来どうしても忘れられない。控所へくれば、すぐ、うらなり君が眼に付く、途中とちゅうをあるい
ていても、うらなり先生の様子が心に浮うかぶ。温泉へ行くと、うらなり君が時々蒼あおい顔をして湯壺
ゆつぼのなかに膨ふくれている。挨拶あいさつをするとへえと恐縮きょうしゅくして頭を下げるから気の
毒になる。学校へ出てうらなり君ほど大人しい人は居ない。めったに笑った事もないが、余計な口をきい
た事もない。おれは君子という言葉を書物の上で知ってるが、これは字引にあるばかりで、生きてるもの
ではないと思ってたが、うらなり君に逢あってから始めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらい
だ。
 このくらい関係の深い人の事だから、会議室へはいるや否や、うらなり君の居ないのは、すぐ気がつい
た。実を云うと、この男の次へでも坐すわろうかと、ひそかに目標めじるしにして来たくらいだ。校長は
もうやがて見えるでしょうと、自分の前にある紫むらさきの袱紗包ふくさづつみをほどいて、蒟蒻版こん
にゃくばんのような者を読んでいる。赤シャツは琥珀こはくのパイプを絹ハンケチで磨みがき始めた。こ
の男はこれが道楽である。赤シャツ相当のところだろう。ほかの連中は隣り同志で何だか私語ささやき合
っている。手持無沙汰てもちぶさたなのは鉛筆えんぴつの尻しりに着いている、護謨ゴムの頭でテーブル
の上へしきりに何か書いている。野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向応じない。ただうんとかあ
あと云うばかりで、時々怖こわい眼をして、おれの方を見る。おれも負けずに睨にらめ返す。
 ところへ待ちかねた、うらなり君が気の毒そうにはいって来て少々用事がありまして、遅刻致いたしま
したと慇懃いんぎんに狸たぬきに挨拶あいさつをした。では会議を開きますと狸はまず書記の川村君に蒟
蒻版を配布させる。見ると最初が処分の件、次が生徒取締とりしまりの件、その他二三ヶ条である。狸は
例の通りもったいぶって、教育の生霊いきりょうという見えでこんな意味の事を述べた。「学校の職員や
生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳かとくの致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれ
で校長が勤まるとひそかに慚愧ざんきの念に堪たえんが、不幸にして今回もまたかかる騒動を引き起した
のは、深く諸君に向って謝罪しなければならん。しかしひとたび起った以上は仕方がない、どうにか処分
をせんければならん、事実はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹蔵のない事を
参考のためにお述べ下さい」

316 :山師さん:2016/05/19(木) 00:07:32.91 ID:xGA19+n4
 おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのと云うものは、えらい事を云うもんだと感心した
。こう校長が何もかも責任を受けて、自分の咎とがだとか、不徳だとか云うくらいなら、生徒を処分する
のは、やめにして、自分から先へ免職めんしょくになったら、よさそうなもんだ。そうすればこんな面倒
めんどうな会議なんぞを開く必要もなくなる訳だ。第一常識から云いっても分ってる。おれが大人しく宿
直をする。生徒が乱暴をする。わるいのは校長でもなけりゃ、おれでもない、生徒だけに極きまってる。
もし山嵐が煽動せんどうしたとすれば、生徒と山嵐を退治たいじればそれでたくさんだ。人の尻しりを自
分で背負しょい込こんで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかす奴が、どこの国にあるもんか、狸でな
くっちゃ出来る芸当じゃない。彼かれはこんな条理じょうりに適かなわない議論を吐はいて、得意気に一
同を見廻した。ところが誰も口を開くものがない。博物の教師は第一教場の屋根に烏からすがとまってる
のを眺ながめている。漢学の先生は蒟蒻版こんにゃくばんを畳たたんだり、延ばしたりしてる。山嵐はま
だおれの顔をにらめている。会議と云うものが、こんな馬鹿気ばかげたものなら、欠席して昼寝でもして
いる方がましだ。
 おれは、じれったくなったから、一番大いに弁じてやろうと思って、半分尻をあげかけたら、赤シャツ
が何か云い出したから、やめにした。見るとパイプをしまって、縞しまのある絹ハンケチで顔をふきなが
ら、何か云っている。あの手巾はんけちはきっとマドンナから巻き上げたに相違そういない。男は白い麻
あさを使うもんだ。「私も寄宿生の乱暴を聞いてはなはだ教頭として不行届ふゆきとどきであり、かつ平
常の徳化が少年に及ばなかったのを深く慚はずるのであります。でこう云う事は、何か陥欠かんけつがあ
ると起るもので、事件その物を見ると何だか生徒だけがわるいようであるが、その真相を極めると責任は
かえって学校にあるかも知れない。だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのは、か
えって未来のためによくないかとも思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の
考えはなく、半ば無意識にこんな悪戯いたずらをやる事はないとも限らん。でもとより処分法は校長のお
考えにある事だから、私の容喙ようかいする限りではないが、どうかその辺をご斟酌しんしゃくになって
、なるべく寛大なお取計とりはからいを願いたいと思います」
 なるほど狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。生徒があばれるのは、生徒がわるいんじゃない教師が悪
るいんだと公言している。気狂きちがいが人の頭を撲なぐり付けるのは、なぐられた人がわるいから、気
狂がなぐるんだそうだ。難有ありがたい仕合せだ。活気にみちて困るなら運動場へ出て相撲すもうでも取
るがいい、半ば無意識に床の中へバッタを入れられてたまるものか。この様子じゃ寝頸ねくびをかかれて
も、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
 おれはこう考えて何か云おうかなと考えてみたが、云うなら人を驚ろすかように滔々とうとうと述べた
てなくっちゃつまらない、おれの癖として、腹が立ったときに口をきくと、二言か三言で必ず行き塞つま
ってしまう。狸でも赤シャツでも人物から云うと、おれよりも下等だが、弁舌はなかなか達者だから、ま
ずい事を喋舌しゃべって揚足あげあしを取られちゃ面白くない。ちょっと腹案を作ってみようと、胸のな

317 :山師さん:2016/05/19(木) 00:07:44.86 ID:xGA19+n4
かで文章を作ってる。すると前に居た野だが突然起立したには驚ろいた。野だの癖に意見を述べるなんて
生意気だ。野だは例のへらへら調で「実に今回のバッタ事件及び咄喊とっかん事件は吾々われわれ心ある
職員をして、ひそかに吾わが校将来の前途ぜんとに危惧きぐの念を抱いだかしむるに足る珍事ちんじであ
りまして、吾々職員たるものはこの際奮ふるって自ら省りみて、全校の風紀を振粛しんしゅくしなければ
なりません。それでただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮こうけいに中あたった剴切が
いせつなお考えで私は徹頭徹尾てっとうてつび賛成致します。どうかなるべく寛大かんだいのご処分を仰
あおぎたいと思います」と云った。野だの云う事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列ちんれ
つするぎりで訳が分らない。分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉だけだ。
 おれは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに起た
ち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と云ったがあとが急に出て来ない。「……そんな頓
珍漢とんちんかんな、処分は大嫌だいきらいです」とつけたら、職員が一同笑い出した。「一体生徒が全
然悪わるいです。どうしても詫あやまらせなくっちゃ、癖になります。退校さしても構いません。……何
だ失敬な、新しく来た教師だと思って……」と云って着席した。すると右隣りに居る博物が「生徒がわる
い事も、わるいが、あまり厳重な罰などをするとかえって反動を起していけないでしょう。やっぱり教頭
のおっしゃる通り、寛な方に賛成します」と弱い事を云った。左隣の漢学は穏便説おんびんせつに賛成と
云った。歴史も教頭と同説だと云った。忌々いまいましい、大抵のものは赤シャツ党だ。こんな連中が寄
り合って学校を立てていりゃ世話はない。おれは生徒をあやまらせるか、辞職するか二つのうち一つに極
めてるんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷作りをする覚悟かくごでいた。ど
うせ、こんな手合てあいを弁口べんこうで屈伏くっぷくさせる手際はなし、させたところでいつまでご交
際を願うのは、こっちでご免だ。学校に居ないとすればどうなったって構うもんか。また何か云うと笑う
に違いない。だれが云うもんかと澄すましていた。
 すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、起ち上がった。野郎また赤シャツ賛成の意を表す
るな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると山嵐は硝子ガラス窓を振ふるわせるような声で
「私わたくしは教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。というものはこの事件はどの点か
ら見ても、五十名の寄宿生が新来の教師某氏ぼうしを軽侮けいぶしてこれを翻弄ほんろうしようとした所
為しょいとより外ほかには認められんのであります。教頭はその源因を教師の人物いかんにお求めになる
ようでありますが失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事で、ま
だ生徒に接せられてから二十日に満たぬ頃ころであります。この短かい二十日間において生徒は君の学問
人物を評価し得る余地がないのであります。軽侮されべき至当な理由があって、軽侮を受けたのなら生徒
の行為に斟酌しんしゃくを加える理由もありましょうが、何らの源因もないのに新来の先生を愚弄ぐろう
するような軽薄な生徒を寛仮かんかしては学校の威信いしんに関わる事と思います。教育の精神は単に学

318 :山師さん:2016/05/19(木) 00:07:56.71 ID:xGA19+n4
問を授けるばかりではない、高尚こうしょうな、正直な、武士的な元気を鼓吹こすいすると同時に、野卑
やひな、軽躁けいそうな、暴慢ぼうまんな悪風を掃蕩そうとうするにあると思います。もし反動が恐おそ
ろしいの、騒動が大きくなるのと姑息こそくな事を云った日にはこの弊風へいふうはいつ矯正きょうせい
出来るか知れません。かかる弊風を杜絶とぜつするためにこそ吾々はこの学校に職を奉じているので、こ
れを見逃みのがすくらいなら始めから教師にならん方がいいと思います。私は以上の理由で寄宿生一同を
厳罰げんばつに処する上に、当該とうがい教師の面前において公けに謝罪の意を表せしむるのを至当の所
置と心得ます」と云いながら、どんと腰こしを卸おろした。一同はだまって何にも言わない。赤シャツは
またパイプを拭ふき始めた。おれは何だか非常に嬉うれしかった。おれの云おうと思うところをおれの代
りに山嵐がすっかり言ってくれたようなものだ。おれはこう云う単純な人間だから、今までの喧嘩はまる
で忘れて、大いに難有ありがたいと云う顔をもって、腰を卸した山嵐の方を見たら、山嵐は一向知らん面
かおをしている。
 しばらくして山嵐はまた起立した。「ただ今ちょっと失念して言い落おとしましたから、申します。当
夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたようであるが、あれはもっての外の事と考えます。いやしく
も自分が一校の留守番を引き受けながら、咎とがめる者のないのを幸さいわいに、場所もあろうに温泉な
どへ入湯にいくなどと云うのは大きな失体である。生徒は生徒として、この点については校長からとくに
責任者にご注意あらん事を希望します」
 妙な奴だ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失策をあばいている。おれは何の気もなく、前の宿直
が出あるいた事を知って、そんな習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまったんだが、なるほどそう云
われてみると、これはおれが悪るかった。攻撃こうげきされても仕方がない。そこでおれはまた起って「
私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまります」と云って着席したら、一同がま
た笑い出した。おれが何か云いさえすれば笑う。つまらん奴等やつらだ。貴様等これほど自分のわるい事
を公けにわるかったと断言出来るか、出来ないから笑うんだろう。
 それから校長は、もう大抵ご意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しましょうと云った
。ついでだからその結果を云うと、寄宿生は一週間の禁足になった上に、おれの前へ出て謝罪をした。謝
罪をしなければその時辞職して帰るところだったがなまじい、おれのいう通りになったのでとうとう大変
な事になってしまった。それはあとから話すが、校長はこの時会議の引き続きだと号してこんな事を云っ
た。生徒の風儀ふうぎは、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく
飲食店などに出入しゅつにゅうしない事にしたい。もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあま
り上等でない場所へ行くのはよしたい――たとえば蕎麦屋そばやだの、団子屋だんごやだの――と云いか
けたらまた一同が笑った。野だが山嵐を見て天麩羅てんぷらと云って目くばせをしたが山嵐は取り合わな
かった。いい気味きびだ。
 おれは脳がわるいから、狸の云うことなんか、よく分らないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師
が勤まらなくっちゃ、おれみたような食い心棒しんぼうにゃ到底とうてい出来っ子ないと思った。それな

319 :山師さん:2016/05/19(木) 00:08:08.74 ID:xGA19+n4
ら、それでいいから、初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文して雇やとうがいい。だんまりで辞令を下
げておいて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪なお布令ふれを出すのは、おれのような外に道楽のないも
のにとっては大変な打撃だ。すると赤シャツがまた口を出した。「元来中学の教師なぞは社会の上流にく
らいするものだからして、単に物質的の快楽ばかり求めるべきものでない。その方に耽ふけるとつい品性
にわるい影響えいきょうを及ぼすようになる。しかし人間だから、何か娯楽ごらくがないと、田舎いなか
へ来て狭せまい土地では到底暮くらせるものではない。それで釣つりに行くとか、文学書を読むとか、ま
たは新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚こうしょうな精神的娯楽を求めなくってはいけない……」
 だまって聞いてると勝手な熱を吹く。沖おきへ行って肥料こやしを釣ったり、ゴルキが露西亜ロシアの
文学者だったり、馴染なじみの芸者が松まつの木の下に立ったり、古池へ蛙かわずが飛び込んだりするの
が精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子を呑のみ込むのも精神的娯楽だ。そんな下さらない娯楽を授ける
より赤シャツの洗濯せんたくでもするがいい。あんまり腹が立ったから「マドンナに逢あうのも精神的娯
楽ですか」と聞いてやった。すると今度は誰も笑わない。妙な顔をして互たがいに眼と眼を見合せている
。赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。それ見ろ。利いたろう。ただ気の毒だったのはうらなり君で、
おれが、こう云ったら蒼い顔をますます蒼くした。



 おれは即夜そくや下宿を引き払はらった。宿へ帰って荷物をまとめていると、女房にょうぼうが何か不
都合ふつごうでもございましたか、お腹の立つ事があるなら、云いっておくれたら改めますと云う。どう
も驚おどろく。世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかり揃そろってるんだろう。出てもらいた
いんだか、居てもらいたいんだか分わかりゃしない。まるで気狂きちがいだ。こんな者を相手に喧嘩けん
かをしたって江戸えどっ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと出てきた。
 出た事は出たが、どこへ行くというあてもない。車屋が、どちらへ参りますと云うから、だまって尾つ
いて来い、今にわかる、と云って、すたすたやって来た。面倒めんどうだから山城屋へ行こうかとも考え
たが、また出なければならないから、つまり手数だ。こうして歩いてるうちには下宿とか、何とか看板の
あるうちを目付け出すだろう。そうしたら、そこが天意に叶かなったわが宿と云う事にしよう。とぐるぐ
る、閑静かんせいで住みよさそうな所をあるいているうち、とうとう鍛冶屋町かじやちょうへ出てしまっ
た。ここは士族屋敷やしきで下宿屋などのある町ではないから、もっと賑にぎやかな方へ引き返そうかと
も思ったが、ふといい事を考え付いた。おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。うらなり君
は土地の人で先祖代々の屋敷を控ひかえているくらいだから、この辺の事情には通じているに相違そうい
ない。あの人を尋たずねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかも知れない。幸さいわい一度挨拶
あいさつに来て勝手は知ってるから、捜さがしてあるく面倒はない。ここだろうと、いい加減に見当をつ
けて、ご免めんご免と二返ばかり云うと、奥おくから五十ぐらいな年寄としよりが古風な紙燭しそくをつ
けて、出て来た。おれは若い女も嫌きらいではないが、年寄を見ると何だかなつかしい心持ちがする。大

320 :山師さん:2016/05/19(木) 00:08:41.05 ID:xGA19+n4
方清きよがすきだから、その魂たましいが方々のお婆ばあさんに乗り移るんだろう。これは大方うらなり
君のおっ母かさんだろう。切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。まあお上がりと
云うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関げんかんまで呼び出して実はこれこれだが
君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としば
らく考えていたが、この裏町に萩野はぎのと云って老人夫婦ぎりで暮くらしているものがある、いつぞや
座敷ざしきを明けておいても無駄むだだから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋しゅうせんし
てくれと頼たのんだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと
、親切に連れて行ってくれた。
 その夜から萩野の家の下宿人となった。驚おどろいたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、翌日あ
くるひから入れ違ちがいに野だが平気な顔をして、おれの居た部屋を占領せんりょうした事だ。さすがの
おれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、お互たがいに乗せっこをしているのかも知れな
い。いやになった。
 世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並せけんなみにしなくちゃ、遣やりきれない訳にな
る。巾着切きんちゃくきりの上前をはねなければ三度のご膳ぜんが戴いただけないと、事が極きまればこ

321 :山師さん:2016/05/19(木) 00:09:08.04 ID:xGA19+n4
うして、生きてるのも考え物だ。と云ってぴんぴんした達者なからだで、首を縊くくっちゃ先祖へ済まな
い上に、外聞が悪い。考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、
六百円を資本もとでにして牛乳屋でも始めればよかった。そうすれば清もおれの傍そばを離はなれずに済
むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しずに暮くらされる。いっしょに居るうちは、そうでもなかった
が、こうして田舎いなかへ来てみると清はやっぱり善人だ。あんな気立きだてのいい女は日本中さがして
歩いたってめったにはない。婆さん、おれの立つときに、少々風邪かぜを引いていたが今頃いまごろはど
うしてるか知らん。先だっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。それにしても、もう返事がきそうなものだ
が――おれはこんな事ばかり考えて二三日暮していた。
 気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々尋たずねてみるが、聞くたんびに何
にも参りませんと気の毒そうな顔をする。ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方そうほ
う共上品だ。爺じいさんが夜よるになると、変な声を出して謡うたいをうたうには閉口するが、いか銀の
ようにお茶を入れましょうと無暗むやみに出て来ないから大きに楽だ。お婆さんは時々部屋へ来ていろい
ろな話をする。どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにお出いでなんだのぞなもしなどと質問をす
る。奥さんがあるように見えますかね。可哀想かわいそうにこれでもまだ二十四ですぜと云ったらそれで
も、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと冒頭ぼうとうを置いて、どこの誰だれさ
んは二十でお嫁よめをお貰もらいたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人ふたりお持ちたのと、何
でも例を半ダースばかり挙げて反駁はんばくを試みたには恐おそれ入った。それじゃ僕ぼくも二十四でお
嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似まねて頼んでみたら、お婆さん正直に本当
かなもしと聞いた。

322 :山師さん:2016/05/19(木) 00:09:20.58 ID:xGA19+n4
君のおっ母かさんだろう。切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。まあお上がりと
云うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関げんかんまで呼び出して実はこれこれだが
君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としば
らく考えていたが、この裏町に萩野はぎのと云って老人夫婦ぎりで暮くらしているものがある、いつぞや
座敷ざしきを明けておいても無駄むだだから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋しゅうせんし
てくれと頼たのんだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと
、親切に連れて行ってくれた。
 

323 :山師さん:2016/05/19(木) 00:09:30.80 ID:xGA19+n4
君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としば
らく考えていたが、この裏町に萩野はぎのと云って老人夫婦ぎりで暮くらしているものがある、いつぞや
座敷ざしきを明けておいても無駄むだだから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋しゅうせんし
てくれと頼たのんだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと
、親切に連れて行ってくれた。
 その夜から萩野の家の下宿人となった。驚おどろいたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、翌日あ
くるひから入れ違ちがいに野だが平気な顔をして、おれの居た部屋を占領せんりょうした事だ。さすがの
おれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、お互たがいに乗せっこをしているのかも知れな
い。いやになった。

324 :山師さん:2016/05/19(木) 00:09:50.08 ID:xGA19+n4
 妙な奴だ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失策をあばいている。おれは何の気もなく、前の宿直
が出あるいた事を知って、そんな習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまったんだが、なるほどそう云
われてみると、これはおれが悪るかった。攻撃こうげきされても仕方がない。そこでおれはまた起って「
私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまります」と云って着席したら、一同がま
た笑い出した。おれが何か云いさえすれば笑う。つまらん奴等やつらだ。貴様等これほど自分のわるい事
を公けにわるかったと断言出来るか、出来ないから笑うんだろう。
 それから校長は、もう大抵ご意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しましょうと云った
。ついでだからその結果を云うと、寄宿生は一週間の禁足になった上に、おれの前へ出て謝罪をした。謝
罪をしなければその時辞職して帰るところだったがなまじい、おれのいう通りになったのでとうとう大変
な事になってしまった。それはあとから話すが、校長はこの時会議の引き続きだと号してこんな事を云っ
た。生徒の風儀ふうぎは、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく
飲食店などに出入しゅつにゅうしない事にしたい。もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあま
り上等でない場所へ行くのはよしたい――たとえば蕎麦屋そばやだの、団子屋だんごやだの――と云いか
けたらまた一同が笑った。野だが山嵐を見て天麩羅てんぷらと云って目くばせをしたが山嵐は取り合わな
かった。いい気味きびだ。
 おれは脳がわるいから、狸の云うことなんか、よく分らないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師

325 :山師さん:2016/05/19(木) 00:09:59.15 ID:xGA19+n4
出来るか知れません。かかる弊風を杜絶とぜつするためにこそ吾々はこの学校に職を奉じているので、こ
れを見逃みのがすくらいなら始めから教師にならん方がいいと思います。私は以上の理由で寄宿生一同を
厳罰げんばつに処する上に、当該とうがい教師の面前において公けに謝罪の意を表せしむるのを至当の所
置と心得ます」と云いながら、どんと腰こしを卸おろした。一同はだまって何にも言わない。赤シャツは
またパイプを拭ふき始めた。おれは何だか非常に嬉うれしかった。おれの云おうと思うところをおれの代
りに山嵐がすっかり言ってくれたようなものだ。おれはこう云う単純な人間だから、今までの喧嘩はまる
で忘れて、大いに難有ありがたいと云う顔をもって、腰を卸した山嵐の方を見たら、山嵐は一向知らん面
かおをしている。
 しばらくして山嵐はまた起立した。「ただ今ちょっと失念して言い落おとしましたから、申します。当
夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたようであるが、あれはもっての外の事と考えます。いやしく
も自分が一校の留守番を引き受けながら、咎とがめる者のないのを幸さいわいに、場所もあろうに温泉な
どへ入湯にいくなどと云うのは大きな失体である。生徒は生徒として、この点については校長からとくに
責任者にご注意あらん事を希望します」
 妙な奴だ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失策をあばいている。おれは何の気もなく、前の宿直
が出あ

326 :山師さん:2016/05/19(木) 00:10:11.90 ID:xGA19+n4
めてるんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷作りをする覚悟かくごでいた。ど
うせ、こんな手合てあいを弁口べんこうで屈伏くっぷくさせる手際はなし、させたところでいつまでご交
際を願うのは、こっちでご免だ。学校に居ないとすればどうなったって構うもんか。また何か云うと笑う
に違いない。だれが云うもんかと澄すましていた。
 すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、起ち上がった。野郎また赤シャツ賛成の意を表す
るな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると山嵐は硝子ガラス窓を振ふるわせるような声で
「私わたくしは教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。というものはこの事件はどの点か
ら見ても、五十名の寄宿生が新来の教師某氏ぼうしを軽侮けいぶしてこれを翻弄ほんろうしようとした所
為しょいとより外ほかには認められんのであります。教頭はその源因を教師の人物いかんにお求めになる
ようでありますが失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事で、ま
だ生徒に接せられてから二十日に満たぬ頃ころであります。この短かい二十日間において生徒は君の学問
人物を評価し得る余地がないのであります。軽侮されべき至当な理由があって、軽侮を受けたのなら生徒
の行為に斟酌しんしゃくを加える理由もありましょうが、何らの源因もないのに新来の先生を愚弄ぐろう
するような軽薄な生徒を寛仮かんかしては学校の威信いしんに関わる事と思います。教育の精神は単に学

327 :山師さん:2016/05/19(木) 00:10:31.54 ID:xGA19+n4
いせつなお考えで私は徹頭徹尾てっとうてつび賛成致します。どうかなるべく寛大かんだいのご処分を仰
あおぎたいと思います」と云った。野だの云う事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列ちんれ
つするぎりで訳が分らない。分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉だけだ。
 おれは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに起た
ち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と云ったがあとが急に出て来ない。「……そんな頓
珍漢とんちんかんな、処分は大嫌だいきらいです」とつけたら、職員が一同笑い出した。「一体生徒が全
然悪わるいです。どうしても詫あやまらせなくっちゃ、癖になります。退校さしても構いません。……何
だ失敬な、新しく来た教師だと思って……」と云って着席した。すると右隣りに居る博物が「生徒がわる
い事も、わるいが、あまり厳重な罰などをするとかえって反動を起していけないでしょう。やっぱり教頭
のおっしゃる通り、寛な方に賛成します」と弱い事を云った。左隣の漢学は穏便説おんびんせつに賛成と
云った。歴史も教頭と同説だと云った。忌々いまいましい、大抵のものは赤シャツ党だ。こんな連中が寄
り合って学校を立てていりゃ世話はない。おれは生徒をあやまらせるか、辞職するか二つのうち一つに極
めてるんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷作りをする覚悟かくごでいた。ど
うせ、こんな手合てあいを弁口べんこうで屈伏くっぷくさせる手際はなし、させたところでいつまでご交
際を願うのは、こっちでご免だ。学校に居ないとすればどうなったって構うもんか。また何か云うと笑う
に違いない。だれが云うもんかと澄すましていた。
 すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、起ち上がった。野郎また赤シャツ賛成の意を表す
るな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると山嵐は硝子ガラス窓を振ふるわせるような声で
「私わたくしは教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。というものはこの事件はどの点か
ら見ても、五十名の寄宿生が新来の教師某氏ぼうしを軽侮けいぶしてこれを翻弄ほんろうしようとした所
為しょいとより外ほかには認められんのであります。教頭はその源因を教師の人物いかんにお求めになる
ようでありますが失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が宿直にあたら

328 :山師さん:2016/05/19(木) 00:10:42.13 ID:xGA19+n4
れは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに起た
ち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と云ったがあとが急に出て来ない。「……そんな頓
珍漢とんちんかんな、処分は大嫌だいきらいです」とつけたら、職員が一同笑い出した。「一体生徒が全
然悪わるいです。どうしても詫あやまらせなくっちゃ、癖になります。退校さしても構いません。……何
だ失敬な、新しく来た教師だと思って……」と云って着席した。すると右隣りに居る博物が「生徒がわる
い事も、わるいが、あまり厳重な罰などをするとかえって反動を起していけないでしょう。やっぱり教頭
のおっしゃる通り、寛な方に賛成します」と弱い事を云った。左隣の漢学は穏便説おんびんせつに賛成と
云った。歴史も教頭と同説だと云った。忌々いまいましい、大抵のものは赤シャツ党だ。こんな連中が寄
り合って学校を立てていりゃ世話はない。おれは生徒をあやまらせるか、辞職するか二つのうち一つに極
めてるんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷作りをする覚悟かくごでいた。ど
うせ、こんな手合てあいを弁口べんこうで屈伏くっぷくさせる手際はなし、させたところでいつまでご交
際を願うのは、こっちでご免だ。学校に居ないとすればどうなったって構うもんか。また何か云うと笑う
に違いない。だれが云うもんかと澄すましていた。
 すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、起ち上がった。野郎また赤シャツ賛成の意を表す
るな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると山嵐は硝子ガラス窓を振ふるわせるような声で
「私わたくしは教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。というものはこの事件はどの点か
ら見ても、五十名の寄宿生が新来の教師某氏ぼうしを軽侮けいぶしてこれを翻弄ほんろうしようとした所
為しょいとより外ほかには認められんのであります。教頭はその源因を教師の人物いかんにお求めになる
ようでありますが失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事で、ま
だ生徒に接せられてから二十日に満たぬ頃

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